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2006年5月 6日 (土)

科学的なるもの

少し前にmixiのコミュニティのトピックで、ホメオパシーの科学的根拠について色々と意見が交わされていたのを見た。
この話題、恐らく200年以上議論されてきたんだろうなぁと思うと、妙に感慨深いものがある。
一般社会におけるそれは、議論というよりも「科学もしくは科学的」という名のもとの糾弾だと言えるかもしれない。

世の中には新しいものや自分が受け入れられないものを、「科学的じゃない」とか「エセ科学・トンデモ科学」とか、簡単に切って捨てる人がたくさんいるが、そもそも科学的であるとはどういうことなのだろうか?そして医学とは科学なのか?という問いが自分の中でいつもあった。
いつも漠然と考えているので(単にボーっとしているだけか)、文章にする気もなかったのだが、我が意を得たり!という本が出たので、ちょっと書いてみる事にした。たぶん引用ばっかりだと思うけど・・・(まあ、レビューだと思ってください)

医学と医術の違い?
で、いきなり引用から入ります(笑)

-「斎の舞へ」清水宣明・甲野善紀著 仮立舎 より- 
医療は「医学」と「医術」で成り立っている。だが、現在は「成り立っているはずだ」と言わねばならない状況である。医学は学問だから、第一に普遍性が要求される。誰にでもわかる形態で記述されなければならない。誰にでもわかる範囲のことしか扱ってはならない。人間の「最大公約数」を理解できればよい。「人間というもの」を扱えればよいのだ。
医学においては、なにごとも数字で表される。医学領域で大切なのは、「差」や「違い」だからである。二つのことがらにどれくらいの差があるのか、ないのか、ということが大切だ。正常か異常かの線引きを行うためである。数字を用いれば、医療者の誰にでも同じ判断ができる。だから、マニュアルで保証すべき六十点の医療には、医学や数字は欠かせない。医療の六十点は、医学、すなわち具体的な数字によって保証される。
ただ、数字は便利で扱いやすいのが利点だが、問題もある。数字で扱えないものについては、医学という方法論で扱うことが難しいという点だ。人間には数字で扱えないことがらや、扱うことが難しいことがらがたくさんある。数字に置き換えて扱う方法が開発されていないことがらがたくさんある。数字にすることに向かないことがらもたくさんある。そこで、統計的な手法を用いて、平均、近似、あるいは有意差といった数字で人間を捉えようとする。従って、医学は個人を個人のままで扱うものではないのである。数字で扱える「平均的仮想人間」を想定することによって、実際の個人を扱うためのひとつの基準や参考としているのだ。人間という「概念」を扱うためのものと言ってもよいかもしれない。このような「医学」を上手に使って多様な人間を上手に扱うのが、「医術」であるはずだ。つまり、医学と医術は、同じく人間を扱うためのものであっても、先立つ前提が全く違うのである。
現代の医療現場における問題の多くは、医学をそのままの形で使おうとしたり、使えると誤解したことにある。「人間とはこんなもの」のはずが、「人間とはこうだ」になった。
(中略)
しかし、医学が用いる人間の最大公約数的概念をそのまま使っても、個々に異なる人間そのものを扱うことは難しい。医学は個々の人間の違いは認めても、それをそのままの形で扱える方法論ではないのである。ここに見られる医学と医療の不整合は、よく言われる「科学は真理を明らかにするもの」という誤解にも通じる。医学は人間を扱う学問である。医学が科学的方法論によって大きく発展し、しかも実感できる直接的な効果が大きかったために、科学は真理を求めるもの、そしてその真理と呼ばれるものは誰にでも当てはまるものと、強く思い込んだ。科学によって明らかにされた事実は、その時点における科学的事実かもしれないが、生物を扱う科学分野においては、多様性の中での最大公約数にすぎない。科学的事実は、新たな発見によってどんどん塗り替えられていく宿命を負う。動かぬ真理など、未だ人類は手に入れてはいない。
-引用終わり-

著者・清水氏は、科学を卑下しているのではない。そこにある不確実性というか、ある種の不安定感を見つめることの重要性を示唆しているのであろう。
医学と医術の違いというのも、これまた細かい話なのかもしれないが、こうして科学的方法論といった観点から考えてみると面白い。
清水氏はエイズウィルスを研究する科学者である。もう1人の著者である武術研究者・甲野善紀氏との邂逅により、科学という方法論と現代という時代の「何か変な違和感」についての実感を得るきっかけになったのだという。
(あーやっぱり本のレビューだなぁこりゃ。まーいいや、このまま進もう)

清水氏は言う。
「現代は科学の時代と言われる。科学的という形容詞が、天下御免の印籠のように使われている。科学的という形容詞を冠せられていなければ、信じることも信じられることもままならない世の中である。しかし、果たして科学とは、そのような力を持つものなのか。」
これが科学者としての清水氏の「違和感」である。

ほら、ホメオパシーを勉強してると、「我が意を得たり!」でしょー(爆笑)
実際、私も科学的なことが好きである。もっともトンデモに分類されるものも好きなので、科学派(?)を自認する人からは、「一緒にするな」と言われることだろう。
しかし一般人としては、何が科学的か?という問いを真剣に立てつつ、笑い飛ばすぐらいの余裕とユーモアを持つぐらいでいいじゃないかぁなどと、不意に思ってしまった。
(あぁ、脈絡のない文章だ・・・)

さて、これまた最近の本で、

「99.9%は仮説~思い込みで判断しないための考え方」竹内薫著 光文社新書

という本がある。
これも科学的態度とは何かについて書かれた本である。リラックスして読める楽しい本である。
結局突き詰めると、科学というのはどこに辿り着くのか?こういう前提をわきまえて、科学というものを語ったり、科学的であると論じたりせよという態度を分かりやすく説明している。著者は、「アタマが柔らかい」と表現しているみたいだ。

私が後悔したのは、この本を読んだのが日本からロンドンに戻る直前だったことである。
何でかって?なんと飛行機が飛ぶ仕組みは、まだ完全に解明されていないんだって!
離着陸の時、思わず何度も窓から見える翼を見つめてしまったものである(苦笑)

もう1つ驚いたのが、麻酔のことである。
全身麻酔がなぜ効くかについてのメカニズムは、未だによく分かっていないということである。この話は、随分前から知っていた。随分前だったので、もう解明されているのだろうと思っていたのだが、違ったらしい。
ふむ、そこで私がいつもお世話になっている「Guyton & Hall Textbook of Medical Physiology 11th edition」を、Anesthesia(麻酔)で検索してみる・・・驚くなかれ、「No text results found」「No image results found」と出た。文章も図表も無いというんである。
ナルホド、この話題には触れるなということですね(笑)

部分と全体
有名なハイゼンベルグの本のことではありません。

-再び「斎の舞へ」からの引用-
科学は、全ての事象(この世の観察可能な事物)を分解して分析するという手法を採る方法論である。その究極の目的は、分解する前の事象そのものの理解にある。一般には、科学という方法論によってこそ、それが可能だと信じられている。それどころか、科学という方法論によってしか、それは可能とはならないとさえ信じられている。
しかし、科学という方法論においては、分解・分析していく方法を正方向とした場合の逆方向、すなわち再構築は、必ずしも正しいとは言えない。なぜならば、ある事象を分解してしまうと、その過程で失われるものがあまりにも大きいからである。その中でも重要なものは、例えば身体を例に採れば、身体を形作る様々な「部分」が本来持っている「存在の必然性」である。全体の中において「部分」であるということと、全体から分離された「部分」であるという状態にあるということは、全く意味が異なる。なぜかというと、これら二つの部分における、他との関係性が全く異なるからである。全体の中における「部分」は、決してそれ単独で存在しているわけではない。ところが全体を分解してしまうと、そこに存在していた関係性も失われ、「部分」は本来の状態とは違った存在として成立するようになる。もはや、それは部分というものでさえない。元とは違う存在になる。従って、元とは違う属性を帯びた「部分」をいくら寄せ集めても、全体を元通りに再構築することはできないのだ。「部分」を機械的に元通りに集合させれば全体に戻りそうにも思われるが、そうはいかない。身体の中の「部分」は、何の脈絡もなく生じたのではない。最初からその状態にあったわけでも、単なる三次元的な座標の値を持った物体として存在していたわけでもないのだ。
-引用終わり-

ホリスティックとは何か?
まあ既にどこかで同じように言われていることではあるけれど、現代医療とホリスティック医療のアプローチの違いについては、こういう風に表現できるんだなぁと、改めて妙に感心してしまった。
清水氏は、このような筆致で、名医とは、科学的トレーニング、現代医療による治療、統合医療、マニュアル化の弊害(医療事故に関係して)等々、多角的に論を展開する。
氏の見識もさることながら、文章表現の豊かさがうらやましい。本を書くとなると、これぐらいできないといけないのかぁ・・・と我が身を憂う。

巻末には、甲野氏が「清水氏の思索に呼応する形で」人間にとっての自然とは何かを語っている。
プラシーボとか面白い話題もある。
甲野氏の口から、短いながらもホメオパシーという言葉が出てくるとは思ってもみなかったが、この期待の裏切り(?)は嬉しいものであった。この方の著作も何冊か読んだことがあるが、相変わらず見事な文章裁きである。宮本武蔵等に見られるように「書」も武士の嗜みであるとするならば、古武術研究家である同氏にしてみれば、これも当然のことなのだろうか。

いずれにしても、楽しい本である。
清水氏の言う「シナジー」は、私との間では幾らかでも達成されたと信じる。著者たちの言葉が、それほどすんなりと私の中に入ってきた。
探していた言葉を捜してくれた。そんな感じである。見つからなかったのは、私の見識と経験の不足による。
上手な人のリードで、ダンスを踊るような感じかなぁ。終わってみると、元のヘタッピィに戻っているのだろうけどねぇ。

という訳で、やっぱりレビューでした。

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コメント

「科学的」根拠を論じてもね、と思います。

なぜ飛行機が飛ぶのか、全身麻酔が効くのか
それは飛行機は飛ぶと(また飛んでいると)認識しているから飛ぶ(もしくは飛んでいる)のであって、また全身麻酔が効くと認識しているから効くのです
※よって飛ばないと、もしくは効かないと認識している人にとっては、飛んでいないし、また効かない
認識することは枠組みをもっているからこそできることであり、逆に枠組みが認識を規定している
なんとなくそう思う今日この頃です

ふふ、お久しぶりです、ふるかわさん。

相変わらず私のツボを突いてきますね(笑)

認識か実在か?
心脳問題にも関わってきますね。
飛んでいるとか、「さあ、これからキッチンに行って洗い物をするぞ」とか、待っているメールの返事が着てるかもしれないと、朝早くに起きだしてしまうとか、etc.
これらすべてが、脳の中のシナプスの電気信号に過ぎず、我々が自分の意思や認識だと信じているものが、実は、脳に「そう思わされているに過ぎない」のだとしたら?
あらゆるものが電気信号の偶然の造作に過ぎないのだと。

世の中全てが幻、一切が空。

仏教の世界に入っていきますね。

「心脳問題」山本貴光・吉川浩満著 朝日出版社
って読みました?面白いですよ。
アマゾンでは、確か茂木健一郎氏がレビューを書いていました。

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