挿絵Ⅰ
私が「そのとき私は彼を意味していた」と言うとき、おそらく私には或る像が、例えば、私に見える彼の様子、等々、についての像が、浮かぶであろう。しかしその像は、或る話の挿絵のようなものに過ぎないのである。その挿絵からだけでは、大抵の場合、如何なる帰結も導かれないであろう。人は、その話を知って初めて、その像の意味を知るのである。(663)
(『哲学的探求』読解ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著 黒崎宏訳)
センセーション・メソッドを研究するに当たって、深く考えさせられるテキストである。
ヴァイタル・センセーションとなり得るのは、ここで言う「挿絵」のことであろう。
我々は「恐らく」、この挿絵の事を知りたいのだ。
しかし、その話を知らなければ意味を知ることは出来ない。
《例えば物語を読むとき、イメージが念頭に浮かぶ、という事は、読むという事に対し本質的ではないのである。読むという事は、心的事象を念頭に浮かばせるという事ではないのだ。(「自己」の哲学―ウィトゲンシュタイン・鈴木大拙・西田幾多郎 黒崎宏著)》
従って、同書黒崎氏の言葉を借りれば、話をするという事は、話者間の言語ゲームにおける言語的事象のひとこまなのである。そこには体験者である「私」は存在しない。
これが、コンサルテーションで起こる事でもある。
体験を巡っての、患者とホメオパスの言語ゲームである。
話すことと、心的現象を想起することは、別の事でありながら、我々はその想起した挿絵の方を知りたいのであり、体験者である「私」の事を知りたいのだ。
困ってしまうのは、以下のような言明である。
意味することは、意図することがそうであるように、体験ではない。
しからば、何がそれらを体験から区別するのか。-それは、それらは体験内容を持っていないということである。何故なら、それらに随伴し、そしてそれらの挿絵になるような体験内容(例えば、イメージ)は、意味することでも意図することでもないのであるから。(同書)
我々は、患者が話した感覚や体験について、それはどういう意味かとしばしば問う。
しかし、言葉の意味を問い、その結果言語化されたものは体験(そのもの)ではないのだとすると、それは問えないことになる。
ただあるがままの挿絵を語ってもらう。結局そういう事になる。
だが、挿絵を知るだけでは意味は知りえず(従ってレメディを選べない)、それを意味する(言語化する)ことは体験ではない(ゆえにレメディ像と照らし合わせることが出来ない)。
西田幾多郎やウィリアム・ジェイムズが言う『純粋経験』、それはRajan Sankaranの言うところの「エネルギー(のレベル)」に対応するだろう。ここで言うエネルギーは言語化不能である。
それが挿絵の形で想起されたものがセンセーションであると言えるかもしれない。
物語は、それが具体化な日常言語に翻訳されたものということになろうか。
であるならば、挿絵から物語まで「降りて」来た時に、元の体験がそのままの体験でなくなっている可能性があろう。
ここに、言語が介在し、言語以外では達成できないコンサルテーションの難しさがある、のだと思う。
知りたい事は、言語の限界にあるものなのだ。
もう少し悩んでみる必要がある。。。
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