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絶対他力と自力

「先生にお任せします」

良く聞くセリフである。ガン病棟でもよくある光景の一部であろう。
これを良いとも悪いとも、私は断じない。
それで治る人も、治らない人も、いる。

しかし、殆どの人は、「お任せ」していないのではなかろうか?

お任せして、「あぁ、もう大丈夫」または「これでもう悔いはない」という境地にはなかなか入れないだろう。
誰しも不安はある。しかし問題は、お任せしますと言いながら、疑っている。
心配とは違う、この疑念・・・

ガン患者さんの中には、代替療法なんかで治るんですか?とか、科学的根拠がないから信用できないと言う人が多い。
しかし、そういう人は、西洋医学の治療でも治ることに関して信頼していないからこそ、代替療法者などの所に行くわけである。

お任せしますと言いながら、任せ切れず、でも、アンタの方は信用出来ないと言う。
これは、どちらの医療・療法にも失礼であろう。
どちらを選択しても、あまりうまく行かない可能性が高いパターンである。

私は、個人的には侵襲的な治療には反対である。
少なくとも長い目で観て、それだけでは解決しない。
しかし、仮にある人が西洋医学、例えば抗ガン剤治療を選び、
「先生、お任せします!あー、これで絶対治るぞ。ちょっと我慢さえすれば、もう大丈夫。」
と、心底、一点の曇りもなく、確信することが出来るなら、他人任せでも案外治っちゃうかもしれない、と思う。

これは、親鸞の「絶対他力」の世界であろう。

もう大丈夫という確信。そして阿弥陀仏に完全にお任せする。
なぜなら、弥陀は一切衆生を救うことになっているから。
どんな自力のはからいも捨てよ。なぜなら自力に頼ろうとすることは、弥陀のはからいを信じていないことになるから。

ただひたすら弥陀の光を信じ、悔い改めれば、救われたという確信(往生の確信)が自身の内に自ずから沸き上がる。
仏の方が、手を差し伸べてくれているのだから。
それが、心からお念仏を唱える動機であり、自身の内に芽生えた信心が念仏に向かわせるのである。

ここにあって、念仏を唱えるのが1回だろうが100回だろうが変わらない。
肝要なのは、この「信」であり、それもまた弥陀のはからいにより自ずから生ずるのだ。
あるべくしてある。自然法爾である。

私は、称名念仏というのを誤解していた。
ただ念仏唱えて、悟りを得られるなら、誰も苦労しないわい、と思っていた。
今、初期仏教が注目されているが、そちらの方が理解できる気がした。

しかし吉本隆明氏の「最後の親鸞 (ちくま学芸文庫) 」を読んで、世界が一変した。
なるほど、親鸞には思想がある。私にとっては、それは逆転の思想だった。
そうして、様々読みふけることになり、どうもキリスト教との思想的共通点も感じられるようになったのだ。

「他力の癒し」に話を戻す。

完全にお任せすればいい。絶対他力。
これは実は、途方もなく難しいことではなかろうか?
例えば、情報が氾濫している現在の状況で、ガン患者さんに、このパターンを見いだすことは難しいだろう。
少なくともガン治療において、全ては確率的、つまり不確実である。
疑念なくお任せしろと言う方が無理であろう。

しかし、絶対他力の人はいる!
伊藤勇さんである。
http://www.asahi-net.or.jp/~is9c-yngw/index.html

伊藤さんは、末期ガンで余命3ヶ月と言われた人である。

その3ヶ月で、経営していた会社を社員ごと引き受けてもらい、遺産相続の話を済ませ、法名をつけてもらい、自分で自分の葬式の予約までした。

肩の荷を降ろして、あとはオマケの人生。感謝して、楽しく、お迎えを待つばかり。
3ヶ月経っても、その後も生きていた。しかし、数年間、ガンは無くならず、転移も増えた。

これだけでも驚きである。

ある時、高熱が下がらなくなり、入院した。
とうとうお迎えが来たと思ったそうである。
先生が、気になる事があるから検査させて欲しいと言ったが、「私は気にしていないです」と。
しかし、先生の方が検査したいとのこと。

なんと!ガンが消えていたのである!!

まさに絶対他力。
世間では、伊藤さんを奇跡の人と呼ぶ。
確かにこの境地には、なかなか入れない。

だが、親鸞思想的には、ちゃんと治る理由があったのである。
彼は、ただ諦めた、のではない。
余計なものは全部捨てて、身軽になって、オマケの人生に感謝し、楽しんだ。
一日一日を、大切に過ごした。

厳密には、親鸞的な「自力のはからいの放棄」にはならないかもしれない。
伊藤さんは、玄米食もやっている。これを自力でないと否定は出来ない。
しかし、感謝して、あとはお迎えを待つばかり、という潔さと、身体を労わり一日一日を大切に過ごすことは、矛盾しないだろうと思う。
伊藤さんは、治る確信があって取り組んでいたわけではないだろうから。

そして、どんな事にもありがとう。
これが、称名念仏に当たるのかもしれない。

伊藤さんは、ガンを受け入れたと言っている。
ガンを受け入れ、オマケの人生の安らぎ。すべてに感謝。
ご本人は、そんな風には思っていないかもしれないが。これこそが、弥陀の光に包まれ、浄土を確信した人の境地なのではなかろうか。

とはいえ、伊藤さんが絶対他力という帰結に対しては、異論があるだろう。
私は、彼のケースが誰よりも絶対他力に近いものと思うが、彼をして自力であると言うならば、絶対他力は、治癒モデルとしては、実現不可能だと思う。
(いずれにしても、殆どの人は達成できないだろう)

しかし実は、自力も他力も、癒しの発現において同じ所で交わるようなのである。
道元と親鸞、親鸞とキリスト教といった類の比較研究を読んで分かってきた。
私はここに希望を見いだすのである。

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