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挿絵3

コンサルテーションは、言語ゲームである。
患者とホメオパスが言語ゲームによって織り成す一つの世界である。
従って、症状、センセーション(感覚)、妄想などによって表象される患者像=レメディ像もまた、言語ゲームによる世界の表象である。

私は以前このことを、「ある意味(シニフィエ)について、言語(シニフィアン)によって共通理解を得る行為である」と述べた時があるが、私的には、同じ流れである。

痛いという感覚がある。
当然、患者はその感覚を「痛い」として認識している。
この「痛い」を、ホメオパスとの共通認識として確立しなければならない。
センセーション・メソッドに限らず、ホメオパシーでは、ただ痛いでは足りず、「どのように痛いか」が重要である。

感覚そのものは、患者の内的体験である。
それは本来、本人にしか知りえない。
また、ある領域を超えると、あるいは深まると、本人さえも言語化出来なくなるだろう。

それをどうにか、言語化して共通認識を持つ。これによって、織り成される世界が患者像(レメディ像)となる。(もちろん言語化された像に対して、多少は類推=分析が入る。)

ウィトゲンシュタインによれば、痛いという感覚が先にあるのではなく、言語ゲームを通じて、ある感覚が痛いという事を知る、ということであった。

だから、その立場に立って、改めてその感覚を、痛いという言葉を使わずに表現してみることによって、感覚を再定義出来るだろう。
それが、新たな氣付きとしての痛みの感覚として認識出来る可能性があると思う。

本人が今まで「痛い」として認識して来た感覚を、新たな表象として捉え直そうとする、その行為によって立ち現れる新しい世界が、ただ痛いというだけでない、深いレベル(センセーション)への扉になるような気がするのである。

一旦、痛みから離れてみる。
その感覚に寄り添いつつ、その苦しさ、辛さを噛み締めつつ、これまで自分の世界にあった痛みという言葉から遠ざかる。
そして、その感覚を説明してみる。ありとあらゆる表現を使って。しかし痛いという言葉は使わない。
例え話、イメージ、光景などを駆使して。

大事なのは、そうした説明をしようとしている時にハッと浮かんでくる像や、蘇ってくる感覚、押し寄せてくる感情である。
そう「挿絵」だ。
浮かんできたそれを、解釈しないで、そのまま言葉にする。
それはもはや、単なる話の添え物としてのイメージではないかもしれない。

これを繰り返すことで、本人にしか知り得ない内的体験を、本人さえも知り得なかった体験として表象することが出来るかもしれない。

痛みを、痛みであることを否定して、痛みとして知る

これが、「即非の論理」の一つの形であると言ったら、暴論であろうか・・・?

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