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2010年9月29日 (水)

最近の新聞報道6-2

医学会の話題のつづき。

医学会のホメオパス養成システムは、
医師、獣医師が専門医、歯科医師、薬剤師が認定医になれるというもの。

おや?昔は看護師がどこかに入っていたと記憶している。
私の知人も、ここの講習に参加していたが、いつの間にか排除されたのだろうか・・・?
あくまで仕事の特性からだけれど、患者に寄り添い、話を聞き、様々なコミュニケーションを取る看護師こそ、ホメオパシーのようなシステムには適性度が高いと思うけれどねぇ。
このヒエラルキーは、どうだろうか・・・

カリキュラムはというと、HPによれば、基礎コース5回の講義のうち、3回以上出席して、100問の選択問題で合格すると、『認定医』になれるんだそうな。
ははぁ、とホメオパシー学校に通った人は思うに違いない。
「これじゃあ、セルフケア・レベルだ」と。

で、その後、中間コース、アドバンスト・コースとあって、結局基礎コースも含めて17回の講義のうち11回出席すると、『専門医』の審査を受けることが出来る(『認定医』になっていることが条件)。
専門医には、医師と獣医師しかなれないのだそう。

9月21日号の『女性自身』に掲載された、川嶋氏のコメントによると、
専門医はこの10年間で9名しか生まれていないとのこと。
「本来ホメオパシーの世界は深く、大変な知識が要求されるものなのです」だって・・・
間違っていないのだけれど、それで、たったこれだけのカリキュラム??
ほんでもって、これだけのカリキュラムで、たった9人しか認定出来ないのかぁ・・・?

そもそも意欲がある歯科医師や薬剤師は、ドロップするよね。
医師や獣医師より意欲があって、必死に勉強して、人によってはすごい才能があって、でも、「ごくろうさん」。専門医にはなれない。

昔ここのカリキュラムに参加していた人を何人か知っているけれど、なんか対症療法みたいだって。
あれじゃあ、ちゃんとレメディ選べないような気がするって言っていた。
そうした人たちは、別のホメオパシー専門学校でも学んでいる(いた)意欲的な人たちである。
真摯に学ぼうとしていて、医師や獣医師でない人は、ここから離れていくだろうなぁ。

これはイギリスでもしばしば耳にするけれど、「Faculty of Homeopathy(医師ホメオパス系の団体)」の人は、コンサルテーション(セッション)が短く、対症療法的な対応をする傾向にあるようだ。
もちろん、医師ホメオパスでも、コテコテのクラシカル・メソッドの人も世界にはたくさんいるけどね。

本を出している有名な先生は、顔も見ないで問診票(質問表)だけで、レメディを出しているということを自分の著書で書いている。
いつもそうしているわけではないのだろう、と善意で解釈したいが、ホメオパス仲間たちの間では、ああいうことを書くのはホメオパシーのために、やめて欲しいと囁かれているのだ。
少なくとも、我々がやっているホメオパシーとは違うから。
このブログにコメントをいただいたこともあるけれど、私の所に来た知らない人からのメールなどでも、問診票(質問表)だけでレメディを出したり、まさしく「3分診療」で、トータリティー(全体像)を観ないと言われたなどの報告が寄せられている。

ちなみに医学会の基本理念の一つに、
「近代西洋医学を修めたものとして、自らの専門性の範囲内の中で治療を行う」
というのがある。
一方的に解釈すると、専門性の範囲内でということは、皮膚科が専門なら、皮膚の治療だけ。泌尿器が専門なら、泌尿器の治療だけ・・・ということかな?

ホメオパシーというのは、そういうシステムじゃないんだけどね。少なくともクラシカルは。
そもそも、ホリスティックというのは、どういう概念だったのだろう?

その解釈は違っていると言うかもしれない。
まあそうかもしれない。
でもね、本音って、うっかり出てしまうものなんだよね(笑)
無意識の存在、普段は注意を払わないレベルの思考活動は、何を言わんとしたかより、何を実際に言ったかに関連付けられると、ラカン派の精神分析では考えられているそうな。
ラカン派精神分析入門―理論と技法

ここでラカンを持ち出すのがいいのかどうかはともかく、彼らの基本理念や、医師至上主義に固執する姿勢などからは、やっぱり潜在意識(本音)にある『好コントロール性向』がにじみ出ているように見える。
統合医療という、これまた医師の好きなシステムがあって、これもまた、『コントロール』という思想下に構築されている。
これは残念ながら、まだホリスティックではなく「統合」という段階であると本人たちも認めているわけだが、私に言わせれば、単なる『混合(または併合)医療』であって、要するに、近代医療のメニューの1ページに、それぞれの補完代替療法を並べただけである。
統合医療というのは、『西洋医学による統治』ということ。

何が言いたいのかというと・・・、
こうした、彼らが「うっかりと」潜在意識から匂わせている好コントロール性向を延長して行くと、その先には、代替療法の対症療法化が待っている、ということである。

彼らは比較的柔軟で優しいから、例えばホメオパシーでやれそうだという時には、レメディを使う。患者の希望も結構聞いてくれるだろう。ダメそうなら、メニューから別のものを出してくる。
あるいは逆の順序で、西洋医学でダメだったら、ホメオパシーなどをやってみようとなる。
西洋医学一辺倒の人よりも、いいのか、悪いのか?それは非常に判断が難しい。
しかし、どの手順でも、思考回路というか、治療選択のアルゴリズムが、殆ど西洋医学のままだから、結局、対症療法に陥る可能性があるだろうと、私は見ている。

だいたいね、深く、大変な知識が要求される世界なんでしょ?
そんなものをアレコレと幾つも手軽に扱えるわけねーだろ!
ホメオパシーだけじゃないよ。漢方、鍼灸、アユルヴェーダなどなど、それぞれが深遠な世界を持っているじゃない。

そうしたものを、医師だからとかなんとか、手軽に統合医療と称して、何種類もの療法を、本当に効果的に駆使することが可能なのか?
どうか各療法の専門家の皆さん、考えてみてください。

まあ医学会の人たちが、イコール統合医療というわけではないのだけれど、どうもこの両者には深い概念的・思想的な繋がりがありそうだ。
だから統合医療学会から学術会議に対して公開討論のオファーが出されているのも不思議なことではない。いや、むしろ、ホメオパシーに関することで統合医療学会が出て行くという事態そのものが、医学会の目指すホメオパシーの統合医療的性格を裏付けると考えた方が良いだろう。
両者に通底するもの、それは以前から述べている、『コントロール』という思想である。本能と言っても良いかもしれない。

コントロールは、科学的であることを標榜する近代医学の必然的性質である。
数値の制御(管理)、症状の抑制(対症療法)という根本的な方法論については言うまでもなく、科学技術(検査機器や放射線などの治療装置等)の本質は、予測と制御である。
そして、文化的にも、社会に組み込まれた一つの規範としての近代医学の立場は、医師の態度(パターナリズム)のみならず、時に悪しき科学至上主義に走り、コントロール=支配色を強くする。

現代社会では医師が全能のごとくふるまうのは昔からの伝統だと擁護されるが、16世紀末のボローニャの記録では、患者が支払をするべきなのは治癒したときだけだとされていたという。
それが18世紀、20世紀と移りゆくにつれ、治癒ではなく治療が約束されるだけになり、それに対して支払がなされるようになった。
アメリカでは、ホメオパス、産婆、床屋兼外科医、女呪術師などの様々なヒーラーとの1世紀に渡る戦いの結果、今日の医師の地位が確立された。
19世紀もかなりになるまで、アメリカの医師はあまり尊敬されていなかったし、収入も少なかったらしい。
確固たる医療の独占と高い尊敬を受ける専門職の誕生は、20世紀になってからの出来事。
「医師の政治力追求は、医師と患者という人間関係における支配追求を反映している」として、こうした支配権を巡る歴史的な戦いと現在の患者との関係に繋がりを見る人もいる。
(「リスク・リテラシーが身につく統計的思考法―初歩からベイズ推定まで (ハヤカワ文庫 NF 363 〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) 」P149~150を参照)

フランスでは、18世紀末に破壊的な猛威をふるった流行病と、貧民の生活保護をめぐる論争をきっかけとして、医学は国家が組織化すべきものとなった。
そうなると、当然ながら医学が国家において重要な位置を占めるようになる。医学は単なる治癒の技術と知識ではなくて、「健康な人間」についての規範を含むものになった。
つまり、医学は健康な生活を送るための指針を提供するだけでなく、個人と社会の関係を、精神と肉体の両面において指導する役割を与えられたのである。
これにより、社会や民族の健康は、正常性と異常性という医学的な概念の両極性において判断されるようになる。国家と医学は、この正常性の確保と異常性の排除という点で手を結ぶ。
ミシェル・フーコーが『臨床医学の誕生 』で分析したように、この時期に医学と疫病の管理が本格的に形成されてきたが、それは病が住民の死をもたらすからというよりも、労働力の低下と労働時間の短縮のために経済的なコストが発生するからだった。
こうして実現した〈福祉社会〉というのは特殊な近代的な慣行であり、新しい権力のありかたと結びついていることを、フーコーは強調した。
フーコー入門 (ちくま新書) を参照)

日本でも、始まった時期はいつだろうと、現実に長い間、医師の支配と患者の服従という関係になっているのは明らかであり、アメリカだろうが日本だろうが、どこでも一緒である。近代医学は国家が組織し、権力の一部を担い、国民の福祉と健康という側面から患者を支配・従属させる。
好コントロール性向は、近代医学というシステムの技術的・機能的特徴であると共に、概念的中核を成している。
それゆえ権力志向というのは、近代医学の自明の目的としてア・プリオリに組み込まれており、必然的に国家機能の一翼を担うようになった、ということなのだろう。

権力という視点から離れてみよう。
近代から現代の科学技術の進歩により、世の中は便利になった。が、同時に戦争においては兵器の殺傷力の飛躍的向上により、大量に人が死ぬようになった。
死ななくても、怪我の程度も酷くなった。
日常生活においても、安全な社会とは言っても、ひとたび怪我をすると、大昔とは比べ物にならない酷いものになる場合が多いだろう。
馬から落ちて怪我をするのと、高速道路で交通事故に遭うのとでは、大違いだ。
もともと西洋医学は、戦場医学として進歩したと言われている。
殺戮兵器の進歩に伴って、治療技術も進歩した。
現代社会では、戦争でなくても、日常において利用される科学技術のレベルに見合った医療技術が必要である。
これは私ももちろん否定しないし、この面では近代医学は特に大切である。当たり前だけど。
ここで私が言いたいのは、近代医学の科学技術との親和性というのは、コントロールというパラダイムを表象するものであるということだ。

随分長くなった・・・。以前の記事に書いたが、
こうしたコントロールを本質的なパラダイムとする近代医学とホメオパシーとでは、原理的に全く相容れない。
だから、そのパラダイムに取り込まれたホメオパシーというのは、恐らくは元の伝統的なホメオパシー(クラシカルだろうとプラクティカルだろうと)とは、別のものになってしまうだろう。

私は医師がホメオパシーをやることについて「否」と言っているわけではない。
むしろ、謙虚になってみれば、医師の方が比較的いいかなと、有利かなとは思う。
ただ、それはスタート時点で医師であったならば、その方が知識的・技術的には近道だろうという意味であって(解剖・生理学的なこと)、理念的な面では足を引っ張る場合も多いかもしれないからね。
それで・・・、一旦、近代医学、あるいはコントロールというパラダイムを離脱して、ホメオパシーに真摯に向き合うことが出来ないような人たちがホメオパシーを「独占」するようなことがあるならば、ホメオパシーはすっかり「骨抜き」にされてしまうだろうと、私のような立場の者は危惧しているのである。

また、経済的な面から見てみると、
ホメオパシーだけをやったとして、一人の患者さんに費やせる時間が長くなると、1日に会える人数は、そんなに多くない。
すると経営面から必然的に起きることは、3分診療に戻って一人当たりのコンサルテーション(セッション)の時間を短くして、なるべく数を回すか、あるいは統合医療を標榜して、ホメオパシーをメニューの中の1つにしてしまうか、である。

すると当然ながら、レメディを選ぶ時間もあまり取れなくなる(これはいわゆる残業なんだよね)から、深く深くなんて分析する時間も取れない。
どうするかというと、対症療法的な発想で機械的にレメディを選ぶことになる。
これがホメオパシーの脱ホリスティック化の一因と考える。
ホメオパシーというものを良く理解している者にとって、絵空事とは、笑えまい。

世間でホメオパシー(あるいは代替医療)の料金が高いとよく批判されるが、保険医療ではないわけだし、殆どのホメオパスは、純粋にホメオパシーだけでは食っていけないのが現状である。
代替医療に批判的な医者が、「代替医療はボッタクリ」のようなことを言うが、実は、やたらに料金が高いのは、医師が行っている代替療法クリニックである。
そういう人は、代替療法を行う医師を批判しているのかもしれないが、ガン医療など、よく見て欲しい。保険適用外の治療をすると、いったいどれだけ費用が掛かるだろうか。
民間ホメオパシーの料金設定もピンキリだけれど、初回で10万円を超えることは稀であろう。

民間のホメオパスは、医師にとっての統合医療のような代替手段を持たない人が多く、せいぜいホメオパスになる前のバックグラウンド(仕事やスキル)を生かして・・・要は食い扶持を確保しつつ、ホメオパシー自体は細々と、でもコツコツ、丹念にホリスティックなホメオパシーを実践している(平均レベルではね)。<2010年9月29日追記>

ただし、実は、対症療法的でも、それはそれでいいと私は思っている。
そういう「流派」もアリかなと。
医学会のカリキュラムにケチをつけたような形になったが、それも本音ではどうでもいい。
選ぶのは患者である。
これは何色、あれは何色と、患者が識別できるように色分けしておけばよい。
その為の目安が出来ればと、私は様々な観点から書いているつもり。
しかし、一党独裁になって、コントロール・パラダイムに染まってしまうと、そうもいかない。

「医者だったら安心ね」と、治療を受けに行ったら、自分が望んでいるホメオパシーというのは、どこにもなかった・・・という世界もあり得るのだ。

だいたい10年間で9人しか専門医が出ないんだよ。
それしか「優秀な」ホメオパスを供給出来ないで、どうするんだろう?
どの学校を出たとしても、卒業しただけでは、とてもじゃないが極めたなんてことにはならない。これは西洋医学だろうが何だろうが同じであるはず。
学校で質の高いカリキュラムを提供することはもちろん大事だが、一定レベル以上の人たちを、臨床の場に送り込んでサポートし、鍛え上げるという体制も、ホメオパシーの進歩のためには必要なのである。

本当に患者のためを想うなら、もっと広い視野を持って、ホメオパシーやホリスティックの本質を見つめなおしてもらいたい。
そして、不幸にして起きた事故のような危険な運用にならないように、ホメオパスを教育するシステムを築いてゆくことを考えるべきである。
その面で、医師が先導して行くというのは、良いことだと思う。
歯科医師や薬剤師、または看護師など「身内」の医療従事者の間に、妙なヒエラルキーを介入させるのもやめた方がいいんじゃないかな。
ホリスティックな健康というのは、色々な意味で、また深い意味で、『自由になること』なのである。
行き過ぎたコントロールは、その対極にある。

せっかくホメオパシーという素晴らしい世界に出会った者同士なのに、そして病に苦しむ人を助けたいと思っている者同士なのに、
なんで、いがみあい、傷つけあわなきゃならんのか・・・私だって、こんなこと書いていると気分悪いよ・・・。

(もうちょっとつづくかも)

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