日記・コラム・つぶやき

2013年6月24日 (月)

『奇跡のリンゴ』

映画『奇跡のリンゴ』を鑑賞。
木村さんの本は何冊か読んでおり、ストーリーは知っているが、役者の演技が良くて、結構泣けた。
隣で妻も大洪水。

とてもいい映画だと思うけど、やっぱり、宇宙人との遭遇とか、龍を観たシーンとかは入れないんだねぇ。
そっちも興味あるんだけど・・・。

さて、劇中、「それでも農薬使うしかないんだ」ってな場面があるんだけど、
いつもの悪い癖(?)で、農薬が抗ガン剤って頭の中で変換される。
あながち的外れではないと思うんだ。
古いパラダイムにしばられていると、どうしても既得権維持の思考しか生まれない。
それに、農薬だって、ガンと関係がないわけじゃないから。

主人公の木村さんのような人が、医療業界にもたくさん出てくれることを祈ろう。
もちろん、患者の中からも。
すでに、徐々にだけれど出始めているけどね。

2013年6月20日 (木)

生き残った者は

戦友が旅立った。
あまりにも突然に。

別れは、特にガンの場合、案外そういうものだと知ってはいたけれど。
世間では、ガンは比較的ゆっくりと死に至ると思われているかもしれない。
少なくとも、そのペースは差があっても、直線的に悪化していくように見えるだろう。

だが、実際には、長く続くように見えた下り坂が、あるとき突然、崖になる。
そういう場合が多い。しかも、どこから崖になるかが、なかなか分からない。
だから、とにかく崖に差し掛からないうちに走り出して、
下り坂を駆け上がってしまわなければならないのである。

密かに弟分として、治ったら色々と手伝ってもらおうと、
私が(勝手に、だが)思っていた男も、突然、足元に広がった崖に落ちた。

急に胸より下が動かなくなってしまったと電話を受けて、3日後、彼は旅立っていった。
のどかな日曜日の朝、コーヒーを飲んでいた時に、奥さんから電話で知らされたのだった。
そういうことがあると、頭では分かっていたが、彼がそうなるとは・・・。

ふと手に取った中原中也の詩が、季節も情景も違うけれども、なぜだか胸にしみる。

生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ
物云ひたげな瞳を床にさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでいく

さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳り、片側は日射しをうけて、あつたかい
けざやかにもわびしい秋の午後です。

空は昨日までの雨に拭われて、すがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。

その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはやこの世のことを考へず、
さりとて死んでいったもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然として、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

(中原中也 『死別の翌日』)

私の仕事は、どうしても別れがつきもの。
ずいぶん慣れたと思ったけど、どうもそうでもなかったようだ。
辛い中にも、そこまで死別に慣れきっていない自分に、どこかで安心していて複雑だが、
「もはやこの世のことを考へず、
さりとて死んでいったもののことも考へてはゐない」
そんな宙ぶらりんの時空に身を置いている自分を感じ、2日間ほどは、何も手につかなかった。

それでもやはり、私は私の人生を精いっぱい生きていく。
彼のような戦友が少しでも多く治る手助けができるように。
彼の分まで生きる、とは言わない。
でも、幸せに生きることが、そしてガンになっても幸せに生きられると伝えることが、
ガンになって生き残った私の責任だと思うから。

卑怯にも似た感情があるとすれば、残された彼の家族に対してなのかもしれない。
病気の相談に乗る立場で、クライアントが亡くなった場合でも、
家族には感謝されることが多い。
けれども、同じような病気で治った私が葬儀に顔を出すというのは、
ご家族も案外複雑な気分になるようで、実際にそういうことを言われたこともある。
それで、ある時からそうした関係の人の葬儀には、相当親しくても行かないことにしている。

だから、今回も行かなかったけど、
深く、深く、祈りを捧げます。
君との出会いに感謝しつつ。

ありがとう。

2013年1月 3日 (木)

謹賀新年

新春のお慶びを申し上げます。
今年もよろしくお願いします。

昨年も、なかなか記事をアップできませんでした。
書きたいこといっぱいあるのにね~。

にもかかわらず・・・、昨年後半から、ガンの患者学研究所の副代表ブログなるものも始めました。
本当は、ブログ掛け持ちとか、特に、ジャンルとしては競合するので、私の名前ではやりたくなかったのだけど、まあ大人の事情ってやつ(?)

http://wellerthanwell.blog.fc2.com/

↑こちらは、あくまでも、ガン患研の理念を伝えるもの。
ガン患研がホメオパシーを勧めているわけではありませんので、くれぐれもご注意を。
こちらからリンクをすることはあっても、向こうからこちらをリンクすることはありません。
(どっちも私だけどさ)

時には内容が、ここのブログと矛盾するように見えることもあるかもしれないけれど、それは、私の持っている複数の役割に応じて(個人として、ホメオパスとして、ガン患研の副代表として、etc)表出しているということです。

もちろん深いところでは有機的に連関している・・・はず。

てなわけで、この「探究記」ともども、よろしくお願いします。

皆様にとって、笑顔あふれる素晴らしい年になりますようように。

2012年1月 4日 (水)

謹賀新年

新春のお喜びを申し上げます。

震災で被災された方にとっても、病に取り組んでいる人にとっても、
『本当の春』が早く訪れますように。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2011年6月14日 (火)

『チャイナ・プロジェクト』が示唆する放射能汚染牛乳のリスク

空前の規模の疫学調査『チャイナ・プロジェクト』が示唆することは、
発ガン物質によって、腫瘍の形成のキッカケが作られるものの、実際に腫瘍が成長するには、動物性たんぱく質の摂取が大きく影響を与えるということ。

当然ながら、牛乳に含まれるタンパク質である「カゼイン」も取り上げられている。
牛乳とガンの関係については、『乳がんと牛乳──がん細胞はなぜ消えたのか 』でも指摘されている。同書では主に、牛乳に含まれるホルモンが発ガンに影響するとしているが、『チャイナ・プロジェクト』では、動物タンパク質としてのカゼインが、ガンのイニシエーション(形成開始期)よりもプロモーション(促進期)に関わるとする。

つまり、化学物質などの発ガン物質が遺伝子を傷つけ、この時に遺伝子の修復がなされずに遺伝的不安定性が生じる。このダメージを受けた細胞は、ガンを引き起こす可能性があるわけだ。
ここで、ある条件が与えられると、プロモーションが始まるのである。その条件が、カゼインなどの動物タンパク質の摂取。

一方、植物性タンパク質では、たとえ高レベルの量を摂取したとしても、ガンの増殖を促進するようなことはないという。

さて、上記のプロセスにおける化学物質を放射線に置き換えても同じことなのは言うまでもない。
すると、放射能で汚染された牛乳を妊婦や子供が飲むというのは、現況下では、最悪の選択となり得ることが分かる。

内部被曝によるイニシエーションと、動物タンパク質とホルモンによるプロモーションの両方を引き起こしてしまうかもしれないのだ。

学校給食では、牛乳はどういう扱いになっているのだろうか?
あぁ~考えたくない・・・

『チャイナ・プロジェクト』の邦訳は、『葬られた「第二のマクガバン報告」(上巻)』『同(中)』。『同(下)』と三分冊。けっこう読みごたえあり。

2011年3月13日 (日)

被災者の方へ祈りを

言葉が見つからないというのが正直なところ。
大変な地震でしたね。

我が家は、妻が〈帰宅難民〉になりました。
12日は私の誕生日。
この年まで元気に生きてこれたことを感謝しつつ、喜べない複雑な気持ち。

被災地の方々には、心からお見舞いを申し上げます。

仙台にいる知人の安否は、まだ分かりません。
どうかご無事で!

災害を免れた人たちも、まだまだ気を抜けませんね。
心を一つにして、乗り切りましょう。

2010年12月31日 (金)

良いお年をお迎えください

あっという間の、そして激動の2010年だった。
今年は、様々なことを『問い直す』一年だったように思う。
新しいことを学ぶとともに、自分の中で一層世界が開けてきた感じ。

『読誦せよ』とは、召命のあった夜、大天使ガブリエルがムハンマドに告げた言葉。
読めなくても、読む。ひたすら読む。本だけでなくて、様々なことを。
引き続き学んで、そして、より『発信する』2011年になりそう。

「明日死ぬかのごとく生きよ。永遠に生きるがごとく学べ」(マハトマ・ガンジー)

日々の家庭生活、健康管理もしっかりと、元気で、笑顔で進んでいこう。

お世話になった皆さん、ありがとうございました。
2011年は、日本クラシカルホメオパシー協会の理事としても、お手伝いをさせていただきます。
引き続き、ご指導のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さんにとっても、ますますご活躍の年となりますように!

Sam拝

2010年9月29日 (水)

最近の新聞報道6-2

医学会の話題のつづき。

医学会のホメオパス養成システムは、
医師、獣医師が専門医、歯科医師、薬剤師が認定医になれるというもの。

おや?昔は看護師がどこかに入っていたと記憶している。
私の知人も、ここの講習に参加していたが、いつの間にか排除されたのだろうか・・・?
あくまで仕事の特性からだけれど、患者に寄り添い、話を聞き、様々なコミュニケーションを取る看護師こそ、ホメオパシーのようなシステムには適性度が高いと思うけれどねぇ。
このヒエラルキーは、どうだろうか・・・

カリキュラムはというと、HPによれば、基礎コース5回の講義のうち、3回以上出席して、100問の選択問題で合格すると、『認定医』になれるんだそうな。
ははぁ、とホメオパシー学校に通った人は思うに違いない。
「これじゃあ、セルフケア・レベルだ」と。

で、その後、中間コース、アドバンスト・コースとあって、結局基礎コースも含めて17回の講義のうち11回出席すると、『専門医』の審査を受けることが出来る(『認定医』になっていることが条件)。
専門医には、医師と獣医師しかなれないのだそう。

9月21日号の『女性自身』に掲載された、川嶋氏のコメントによると、
専門医はこの10年間で9名しか生まれていないとのこと。
「本来ホメオパシーの世界は深く、大変な知識が要求されるものなのです」だって・・・
間違っていないのだけれど、それで、たったこれだけのカリキュラム??
ほんでもって、これだけのカリキュラムで、たった9人しか認定出来ないのかぁ・・・?

そもそも意欲がある歯科医師や薬剤師は、ドロップするよね。
医師や獣医師より意欲があって、必死に勉強して、人によってはすごい才能があって、でも、「ごくろうさん」。専門医にはなれない。

昔ここのカリキュラムに参加していた人を何人か知っているけれど、なんか対症療法みたいだって。
あれじゃあ、ちゃんとレメディ選べないような気がするって言っていた。
そうした人たちは、別のホメオパシー専門学校でも学んでいる(いた)意欲的な人たちである。
真摯に学ぼうとしていて、医師や獣医師でない人は、ここから離れていくだろうなぁ。

これはイギリスでもしばしば耳にするけれど、「Faculty of Homeopathy(医師ホメオパス系の団体)」の人は、コンサルテーション(セッション)が短く、対症療法的な対応をする傾向にあるようだ。
もちろん、医師ホメオパスでも、コテコテのクラシカル・メソッドの人も世界にはたくさんいるけどね。

本を出している有名な先生は、顔も見ないで問診票(質問表)だけで、レメディを出しているということを自分の著書で書いている。
いつもそうしているわけではないのだろう、と善意で解釈したいが、ホメオパス仲間たちの間では、ああいうことを書くのはホメオパシーのために、やめて欲しいと囁かれているのだ。
少なくとも、我々がやっているホメオパシーとは違うから。
このブログにコメントをいただいたこともあるけれど、私の所に来た知らない人からのメールなどでも、問診票(質問表)だけでレメディを出したり、まさしく「3分診療」で、トータリティー(全体像)を観ないと言われたなどの報告が寄せられている。

ちなみに医学会の基本理念の一つに、
「近代西洋医学を修めたものとして、自らの専門性の範囲内の中で治療を行う」
というのがある。
一方的に解釈すると、専門性の範囲内でということは、皮膚科が専門なら、皮膚の治療だけ。泌尿器が専門なら、泌尿器の治療だけ・・・ということかな?

ホメオパシーというのは、そういうシステムじゃないんだけどね。少なくともクラシカルは。
そもそも、ホリスティックというのは、どういう概念だったのだろう?

その解釈は違っていると言うかもしれない。
まあそうかもしれない。
でもね、本音って、うっかり出てしまうものなんだよね(笑)
無意識の存在、普段は注意を払わないレベルの思考活動は、何を言わんとしたかより、何を実際に言ったかに関連付けられると、ラカン派の精神分析では考えられているそうな。
ラカン派精神分析入門―理論と技法

ここでラカンを持ち出すのがいいのかどうかはともかく、彼らの基本理念や、医師至上主義に固執する姿勢などからは、やっぱり潜在意識(本音)にある『好コントロール性向』がにじみ出ているように見える。
統合医療という、これまた医師の好きなシステムがあって、これもまた、『コントロール』という思想下に構築されている。
これは残念ながら、まだホリスティックではなく「統合」という段階であると本人たちも認めているわけだが、私に言わせれば、単なる『混合(または併合)医療』であって、要するに、近代医療のメニューの1ページに、それぞれの補完代替療法を並べただけである。
統合医療というのは、『西洋医学による統治』ということ。

何が言いたいのかというと・・・、
こうした、彼らが「うっかりと」潜在意識から匂わせている好コントロール性向を延長して行くと、その先には、代替療法の対症療法化が待っている、ということである。

彼らは比較的柔軟で優しいから、例えばホメオパシーでやれそうだという時には、レメディを使う。患者の希望も結構聞いてくれるだろう。ダメそうなら、メニューから別のものを出してくる。
あるいは逆の順序で、西洋医学でダメだったら、ホメオパシーなどをやってみようとなる。
西洋医学一辺倒の人よりも、いいのか、悪いのか?それは非常に判断が難しい。
しかし、どの手順でも、思考回路というか、治療選択のアルゴリズムが、殆ど西洋医学のままだから、結局、対症療法に陥る可能性があるだろうと、私は見ている。

だいたいね、深く、大変な知識が要求される世界なんでしょ?
そんなものをアレコレと幾つも手軽に扱えるわけねーだろ!
ホメオパシーだけじゃないよ。漢方、鍼灸、アユルヴェーダなどなど、それぞれが深遠な世界を持っているじゃない。

そうしたものを、医師だからとかなんとか、手軽に統合医療と称して、何種類もの療法を、本当に効果的に駆使することが可能なのか?
どうか各療法の専門家の皆さん、考えてみてください。

まあ医学会の人たちが、イコール統合医療というわけではないのだけれど、どうもこの両者には深い概念的・思想的な繋がりがありそうだ。
だから統合医療学会から学術会議に対して公開討論のオファーが出されているのも不思議なことではない。いや、むしろ、ホメオパシーに関することで統合医療学会が出て行くという事態そのものが、医学会の目指すホメオパシーの統合医療的性格を裏付けると考えた方が良いだろう。
両者に通底するもの、それは以前から述べている、『コントロール』という思想である。本能と言っても良いかもしれない。

コントロールは、科学的であることを標榜する近代医学の必然的性質である。
数値の制御(管理)、症状の抑制(対症療法)という根本的な方法論については言うまでもなく、科学技術(検査機器や放射線などの治療装置等)の本質は、予測と制御である。
そして、文化的にも、社会に組み込まれた一つの規範としての近代医学の立場は、医師の態度(パターナリズム)のみならず、時に悪しき科学至上主義に走り、コントロール=支配色を強くする。

現代社会では医師が全能のごとくふるまうのは昔からの伝統だと擁護されるが、16世紀末のボローニャの記録では、患者が支払をするべきなのは治癒したときだけだとされていたという。
それが18世紀、20世紀と移りゆくにつれ、治癒ではなく治療が約束されるだけになり、それに対して支払がなされるようになった。
アメリカでは、ホメオパス、産婆、床屋兼外科医、女呪術師などの様々なヒーラーとの1世紀に渡る戦いの結果、今日の医師の地位が確立された。
19世紀もかなりになるまで、アメリカの医師はあまり尊敬されていなかったし、収入も少なかったらしい。
確固たる医療の独占と高い尊敬を受ける専門職の誕生は、20世紀になってからの出来事。
「医師の政治力追求は、医師と患者という人間関係における支配追求を反映している」として、こうした支配権を巡る歴史的な戦いと現在の患者との関係に繋がりを見る人もいる。
(「リスク・リテラシーが身につく統計的思考法―初歩からベイズ推定まで (ハヤカワ文庫 NF 363 〈数理を愉しむ〉シリーズ) (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) 」P149~150を参照)

フランスでは、18世紀末に破壊的な猛威をふるった流行病と、貧民の生活保護をめぐる論争をきっかけとして、医学は国家が組織化すべきものとなった。
そうなると、当然ながら医学が国家において重要な位置を占めるようになる。医学は単なる治癒の技術と知識ではなくて、「健康な人間」についての規範を含むものになった。
つまり、医学は健康な生活を送るための指針を提供するだけでなく、個人と社会の関係を、精神と肉体の両面において指導する役割を与えられたのである。
これにより、社会や民族の健康は、正常性と異常性という医学的な概念の両極性において判断されるようになる。国家と医学は、この正常性の確保と異常性の排除という点で手を結ぶ。
ミシェル・フーコーが『臨床医学の誕生 』で分析したように、この時期に医学と疫病の管理が本格的に形成されてきたが、それは病が住民の死をもたらすからというよりも、労働力の低下と労働時間の短縮のために経済的なコストが発生するからだった。
こうして実現した〈福祉社会〉というのは特殊な近代的な慣行であり、新しい権力のありかたと結びついていることを、フーコーは強調した。
フーコー入門 (ちくま新書) を参照)

日本でも、始まった時期はいつだろうと、現実に長い間、医師の支配と患者の服従という関係になっているのは明らかであり、アメリカだろうが日本だろうが、どこでも一緒である。近代医学は国家が組織し、権力の一部を担い、国民の福祉と健康という側面から患者を支配・従属させる。
好コントロール性向は、近代医学というシステムの技術的・機能的特徴であると共に、概念的中核を成している。
それゆえ権力志向というのは、近代医学の自明の目的としてア・プリオリに組み込まれており、必然的に国家機能の一翼を担うようになった、ということなのだろう。

権力という視点から離れてみよう。
近代から現代の科学技術の進歩により、世の中は便利になった。が、同時に戦争においては兵器の殺傷力の飛躍的向上により、大量に人が死ぬようになった。
死ななくても、怪我の程度も酷くなった。
日常生活においても、安全な社会とは言っても、ひとたび怪我をすると、大昔とは比べ物にならない酷いものになる場合が多いだろう。
馬から落ちて怪我をするのと、高速道路で交通事故に遭うのとでは、大違いだ。
もともと西洋医学は、戦場医学として進歩したと言われている。
殺戮兵器の進歩に伴って、治療技術も進歩した。
現代社会では、戦争でなくても、日常において利用される科学技術のレベルに見合った医療技術が必要である。
これは私ももちろん否定しないし、この面では近代医学は特に大切である。当たり前だけど。
ここで私が言いたいのは、近代医学の科学技術との親和性というのは、コントロールというパラダイムを表象するものであるということだ。

随分長くなった・・・。以前の記事に書いたが、
こうしたコントロールを本質的なパラダイムとする近代医学とホメオパシーとでは、原理的に全く相容れない。
だから、そのパラダイムに取り込まれたホメオパシーというのは、恐らくは元の伝統的なホメオパシー(クラシカルだろうとプラクティカルだろうと)とは、別のものになってしまうだろう。

私は医師がホメオパシーをやることについて「否」と言っているわけではない。
むしろ、謙虚になってみれば、医師の方が比較的いいかなと、有利かなとは思う。
ただ、それはスタート時点で医師であったならば、その方が知識的・技術的には近道だろうという意味であって(解剖・生理学的なこと)、理念的な面では足を引っ張る場合も多いかもしれないからね。
それで・・・、一旦、近代医学、あるいはコントロールというパラダイムを離脱して、ホメオパシーに真摯に向き合うことが出来ないような人たちがホメオパシーを「独占」するようなことがあるならば、ホメオパシーはすっかり「骨抜き」にされてしまうだろうと、私のような立場の者は危惧しているのである。

また、経済的な面から見てみると、
ホメオパシーだけをやったとして、一人の患者さんに費やせる時間が長くなると、1日に会える人数は、そんなに多くない。
すると経営面から必然的に起きることは、3分診療に戻って一人当たりのコンサルテーション(セッション)の時間を短くして、なるべく数を回すか、あるいは統合医療を標榜して、ホメオパシーをメニューの中の1つにしてしまうか、である。

すると当然ながら、レメディを選ぶ時間もあまり取れなくなる(これはいわゆる残業なんだよね)から、深く深くなんて分析する時間も取れない。
どうするかというと、対症療法的な発想で機械的にレメディを選ぶことになる。
これがホメオパシーの脱ホリスティック化の一因と考える。
ホメオパシーというものを良く理解している者にとって、絵空事とは、笑えまい。

世間でホメオパシー(あるいは代替医療)の料金が高いとよく批判されるが、保険医療ではないわけだし、殆どのホメオパスは、純粋にホメオパシーだけでは食っていけないのが現状である。
代替医療に批判的な医者が、「代替医療はボッタクリ」のようなことを言うが、実は、やたらに料金が高いのは、医師が行っている代替療法クリニックである。
そういう人は、代替療法を行う医師を批判しているのかもしれないが、ガン医療など、よく見て欲しい。保険適用外の治療をすると、いったいどれだけ費用が掛かるだろうか。
民間ホメオパシーの料金設定もピンキリだけれど、初回で10万円を超えることは稀であろう。

民間のホメオパスは、医師にとっての統合医療のような代替手段を持たない人が多く、せいぜいホメオパスになる前のバックグラウンド(仕事やスキル)を生かして・・・要は食い扶持を確保しつつ、ホメオパシー自体は細々と、でもコツコツ、丹念にホリスティックなホメオパシーを実践している(平均レベルではね)。<2010年9月29日追記>

ただし、実は、対症療法的でも、それはそれでいいと私は思っている。
そういう「流派」もアリかなと。
医学会のカリキュラムにケチをつけたような形になったが、それも本音ではどうでもいい。
選ぶのは患者である。
これは何色、あれは何色と、患者が識別できるように色分けしておけばよい。
その為の目安が出来ればと、私は様々な観点から書いているつもり。
しかし、一党独裁になって、コントロール・パラダイムに染まってしまうと、そうもいかない。

「医者だったら安心ね」と、治療を受けに行ったら、自分が望んでいるホメオパシーというのは、どこにもなかった・・・という世界もあり得るのだ。

だいたい10年間で9人しか専門医が出ないんだよ。
それしか「優秀な」ホメオパスを供給出来ないで、どうするんだろう?
どの学校を出たとしても、卒業しただけでは、とてもじゃないが極めたなんてことにはならない。これは西洋医学だろうが何だろうが同じであるはず。
学校で質の高いカリキュラムを提供することはもちろん大事だが、一定レベル以上の人たちを、臨床の場に送り込んでサポートし、鍛え上げるという体制も、ホメオパシーの進歩のためには必要なのである。

本当に患者のためを想うなら、もっと広い視野を持って、ホメオパシーやホリスティックの本質を見つめなおしてもらいたい。
そして、不幸にして起きた事故のような危険な運用にならないように、ホメオパスを教育するシステムを築いてゆくことを考えるべきである。
その面で、医師が先導して行くというのは、良いことだと思う。
歯科医師や薬剤師、または看護師など「身内」の医療従事者の間に、妙なヒエラルキーを介入させるのもやめた方がいいんじゃないかな。
ホリスティックな健康というのは、色々な意味で、また深い意味で、『自由になること』なのである。
行き過ぎたコントロールは、その対極にある。

せっかくホメオパシーという素晴らしい世界に出会った者同士なのに、そして病に苦しむ人を助けたいと思っている者同士なのに、
なんで、いがみあい、傷つけあわなきゃならんのか・・・私だって、こんなこと書いていると気分悪いよ・・・。

(もうちょっとつづくかも)

2010年9月22日 (水)

最近の新聞報道6-1

少し間が空いてしまったが、続きです。
時間的な制約があって、なかなかじっくり書けないのだけれど、丁寧に推敲しているとアップがいつになるか分からないので、誤解を招く可能性は承知の上で、流れに任せたまま行こうと思う。

今度は、日本ホメオパシー医学会のリアクションについて考えてみたい。

念のため断っておくが、一連の新聞報道において、医療関係者のホメオパシー推進団体であるこの『日本ホメオパシー医学会(以下、医学会とする)』が、団体の公式声明としてコメントをしているわけではないと思うのだが、コメントが掲載された板村論子氏や川嶋朗氏は、医学会の役員であり、医師ホメオパスのリーダー的な存在と目されている人たちで、彼らのコメントは殆ど医学会の公式声明に等しいわけだし、医学会のHPを見ても、同じ内容を話している。
そこで、この両氏のコメントも含めて医学会について言及していこうと思う。

ところで、今回の記事は、より偏った内容になると予測する。かなり文句やグチに近いものになるかもしれない。
まあ元々、私自身が利害関係者だから、これまでの記事だって公平になるわけがないんだけれど、これでも一応、極力偏屈な流れは避けようとしているつもり。けれど、私のパラダイムの立場から言いたいことは言っておきたいし、違う視点も提起したい。
偏っていない意見はつまらないしね(笑)

ではまず、新聞報道でのコメントについて。

この人たちは、ことあるごとに「ホメオパシーは医療行為であり、医師が行うべきだ」としつこく繰り返し続けて来た。
今回の報道でも、やっぱり同じ内容である。
K2シロップを与えなかった助産師の行為に絡めての発言は、まだ理解できるし、一定の論拠があるとも言える。
しかし、学術会議の会長コメントに対しては、どう反論してくれるのだろう?

そもそも、学術会議の会長コメントは、ホメオパシーは科学的に否定されており、医療の現場から排除すべきだという内容である。
これは、国家資格を持った医師が医療としてやるべきものではないという主旨でもあり、日本医師会や薬剤師会が賛同したということは、医師に向かって「No」を突きつけられたとも言えるのである。
医師免許ぶら下げてホメオパシーをやるなということじゃないの?
したがって、医学会にとっては自身の存在に関わる重要な問題だろうし、ホメオパシーを推進する立場としても、「荒唐無稽」とまでこき下ろされたことに対して、先頭に立って反論しなければならないのは彼らであるハズである。
ホメオパシーを扱う立場として医師が一番適切と主張するならば、なおのことリーダーシップを取るべきだろう。

この人たちは、いつもピントがズレていると思うんだよね。

この点については、当事者だから当たり前との意見もあろうが、迅速に資料を整理し、海外からの見解も集めるなど、日本ホメオパシー医学協会の精力的なリアクションについて、私は高く評価している。

組織的な活動が必要な状況である。
学術的な研究を集め、あるいは自ら実験などを行い、それらを整理・分析して、ホメオパシーが有効であることを証明するという作業を、その対峙先である医学界や科学界に向かって主張していくのは、誰よりも医学会の役割であるはずである。少なくとも、自分たちがリーダーだと自負するならば・・・。
彼らは、それをしてこなかった。あるいは、して来たかもしれないが、結果は学術会議の会長コメントであり、日本医師会らの賛同である。

もちろん、彼らにそこまでの実力、組織力がない、ということもあり得る。
しかし、そうであるならば尚のこと、民間の人たちを排除しようとしている行為は、医師というシンボルを傘に着た、極めて乱暴なものと言える。

医学会の人たちの発言を聞いていると、ホメオパシーを広めて定着させようというよりも、ようやく日本で芽を出し始めたホメオパシーという新しい分野で、自分たちのテリトリー(利権)を守りたいようにしか見えないのである。
どうしてそこまで「医師でなければ」と固執するのかについての実情は、私は全く知らないわけではない。(けれど憶測の域を出ないのでここでは述べない。)
ただ、帯津良一先生も含めて、彼らが著書など各方面で「医師のもの」と言うたびに、本来なら同志として協力出来るかもしれない「ホメオパシー仲間」の心が離れていくことに、彼らは気づいているのだろうか?

先駆者として有名な帯津先生も、民間のホメオパシー学校の校長からホメオパシーの存在を知り、色々と教わったことがホメオパシーを始めるキッカケであったことを著書で述べている。しかも帯津先生自身、当初、民間のホメオパシー学校に協力もしていた。
そのことも含め、日本でここまでホメオパシーが広まってきたのは、学校や普及団体を中心とした民間ホメオパスの活動と患者さんたちの支持があったからである。
この点でも、日本ホメオパシー医学協会や日本ホメオパシー振興会をはじめとする民間団体や学校の貢献を忘れてはいけない(個別の論点・批判点はあるけれど)。

また、ホメオパスになろうという人は、元々何らかの病に悩まされ、様々試みたがうまくいかず、ホメオパシーで良くなったという人が相当多い。つまりホメオパスの多くは、患者という支持層にも属する。

ホメオパスには(元)患者が多いということが、ホメオパシーの推進力になっていると私は見ている。そしてセルフケアとしてホメオパシーを学ぶ患者や自然志向の人もまた、潜在的なホメオパスである。
「大変だけれど、もしかしたら将来、自分も病に苦しむ人の役に立てるかもしれない」
そうした利他の精神や社会貢献への意欲が源泉となって生み出すエネルギーがここにはある。
もちろんプロとして人の病に向き合うというのは、善意だけでは出来ないこともあるけれど、この熱意やエネルギーを軽率に扱ってはいけないよ。

ホメオパシーに限らず、多くの伝統的療法や民間療法は、ここまでどうやって生きながらえてきたのだろうか?
通常医学(西洋医学)の医師や科学者の殆どは、そうしたものには非科学的だと目もくれてこなかったから、誰が伝承し守ってきたかというと、ほんの一部の医師たちと、それらを実践し支持する民間の人(多くは患者)だったであろう。

そして日本でのホメオパシーは、元々、医師がせっせと広めてきたものなのか?そうではあるまい。
「医師がやるべき」という主張は、そうした伝統を守ってきた土壌や人々(コミュニティ)を否定し、その伝承を強奪するものである。
そして、医師としての野心からか、「新しい医療(例えば統合医療)」を模索する中で出会った「お宝」を我が物にしようとするような傲慢な態度である。
少しでも良い医療をという良心が動機であれば(一般にはそういう人の方が多いと思うが)、もう少しホメオパシーを求める患者全般のことを理解した方がいいんじゃないかなと思う。

パターナリズムから脱却しなければならないのは患者でもあるのだけれど、特にホリスティックを標榜するならば、医師こそ、脱却する姿勢を持たなければ「真の医療の復権」とか「患者のための温かい医療」なんていうのは、いつまで経っても実現されないだろう。
患者の署名を集め始めたようだけれど、こういう時だけ「患者様」とか言ってもダメだよ(笑)

現実に、彼らの立場は、この業界では実に中途半端で、いわばサンドイッチ状態である。
医学の本流からは否定されている。大体、代替医療を行っている医師は、アウトサイダー扱いである。今回の報道で、一層それは際立ってきた。
また首尾一貫してレイ・ホメオパス(医師でないホメオパス)を排除しようとし続けて来たことで、今のままでは民間のホメオパシー関係者からも協力を得られない。

私は、「医師がやるべき」という意見を、頭ごなしに完全否定はしない。
彼らの主張の中には、患者の安全をいかに確保するかという重要な課題がある。今回の助産師の件は、そうした一例である。
しかし、どうしても医師がやらないと解決しないのか?という観点において、医学会のいささか意固地な主張には重大な瑕疵があると言っているのである。

医師がやったら本当に安全なのか?それを問うことをしない。
これは実は突き詰めると、通常医療が安全なのかという問いに収斂される。
安全性も含めて、通常医学及びその実践者としての医師の在り様が問われているからこそ、代替療法が浸透し始めたわけだ。
それを代替療法を「真摯に(あえて強調させてもらう)」実践する医師は良く分かっているはずである。

しかも、医師がやらなければ危険だという発想は、医師がやれば何でも大丈夫という危険な発想につながる。
ちょうど、「科学的」であれば何でも正当化されるかのような「一神教的崇拝を背景にした科学主義による横暴」に通じる発想でもあり、この「医師がやらなければ」という思考回路こそが、通常医療から遠ざかる人々が忌み嫌うものの一つであろう。

結局は、「黙って医者の言うことを聞け」という、ホリスティック医学とは対極にある態度を、日々懸命にホリスティック療法を実践しているホメオパスに向けて発信しているのである。
つまり、パラダイム的にはホリスティック系に属しているはずなのに、その魂は通常医療のパラダイムからは出ることが出来ない(まあ、そう望んでいないのだろう)。
もしかしたら患者さんの中にも、こうした空気に薄々気づいている人が多いかもしれない。

そもそも、どうして民間のホメオパシー関係者と調整を図ろうとしないのか?
問答無用??・・・だとしたら、ここにもまたパターナリズム・権威主義の鎧が見えるのだ。
そういう人たちが、真のホリスティック医学を実践できるのか?
本当に、患者に深い共感を持って接することが出来るのか?
・・・私には大変疑問である。

このことの重大さを、恐らく誰も指摘して来なかった。
今もって、さっぱりピンと来ない人もいるかもしれない。私も、いざ文章にしてみると、なかなか表現が難しい。

けれど、あえて、一民間ホメオパシー関係者として、言っておこうと思う。
医学会は、日本におけるホメオパシーの守護者のような顔をしているが、実は略奪者である。
科学的根拠も含めホメオパシーの効果や理論について、本流の医者や科学者たちに対して先頭に立って説明・証明することをせずに、実際に日本におけるホメオパシーの伝統をここまで築き上げ支えてきた民間の人々を疎外しようとしているのだ。

彼らと関係のある日本統合医療学会が公開討論を呼びかけているということは知っている。
「ちゃんと、やるべきことをやっている」と言いたいのかもしれない。
でも、そうじゃないんだ。
ホリスティックでも統合医療でも何でもいいけれど、新しい医療を打ち立てたいのなら、医師という権力側(パラダイム)に属する者自身が、その当の権力と真っ向から向かい合ってみろということ。
そのために一度、医者という衣(パラダイム)を脱ぎ捨ててみたらどうか(免許捨てろとは言わないよ。そういう次元の話ではない)。
その姿勢こそが、同じバッシングを受けている側として、我々(民間)がまず見たいものなのである。

やっぱ問題発言・・・?
でも、そうしたら、本当のホメオパシーの守護者になれるかもしれないよ。
これは、エールでもあるのだ。

医師でありながら、純粋にホメオパシーそのものを見つめていて、非常にニュートラルな人たちを私は知っていて、とても尊敬している。
そうした人たちが実際にいるということを知っているだけに、残念なんだよねぇ・・・

(この話題もまだつづくよん)

2010年9月10日 (金)

最近の新聞報道5(追記)

ちょっと語り足りない感があるので、引き続き前回の記事の話題について書いてみる。

それから、コメントをいくつかいただいていますが、個人的にお答えした方がいいと私が判断するもの以外、基本的に放置する方針です。
記事の論点から外れているものについては、特にそうです。
投稿は承認制になっていますが、個人的な誹謗中傷などマナー違反と考えられるもの以外は、そのまま通します。

ちなみにPurpleさんのコメントは、記事をよく読んでくださっているなと感じます。ありがとうございます。

私が言いたいことは、記事に書いていますし、文章の稚拙さはさておき、じっくり読んでいただければ主旨はお分かりいただけるかと思います。
そもそも分かるつもりがない人に対しては、割く時間も十分にあるわけではありません。
そのあたりも、以下をお読みいただければ分かるでしょう。

では『追記』、始めますか。

私は『科学的とは?』という観点から色々と批判、考察、疑問を投げかけているつもりである。
しかし悲しいかな、この手の論争は、いつも水掛け論なんだよね。宿命的ではあるのだけれど。
なので、私自身は、各所で展開されているネットでの掲示板などでの『言い争い』に参加する気はない。
結局、信念対立になっているので、終わりがないから。

信念対立というのは、各自が属する世界のパラダイムに則って、そのパラダイムの文脈からの理論なり観察結果なりを押し付けあっている状態とも言える。

高希釈の溶液に理論上1分子も残らないのに、その元物質の情報を水が保持しているという理論(言明)は、科学的にはどうなのかという時、

  • 現代科学あるいは通常医学の立場=パラダイムからは、「あり得ない」。
  • ホメオパシーの立場からは、「そうかもしれないじゃないか」。

ところが、「科学は普遍的で客観的に正しい」というナイーヴな一般認識があるので、科学的に解決を図ろうと人々は思う。
しかし、ホメオパシーではなくて、通常科学の内部でも、特に複雑な問題に関して、誰しもが同意して認める「科学的に正しい」結論が、そうそういつも出るものではないのが現実である。
大体、「科学的結論を待とう」と留保になる。

もちろん、それが批判的精神を備えた健全な科学の姿とも言えるが(哲学という地図―松永哲学を読む を参照)、逆に言うと、通常科学内部(サブ・パラダイム間とでも言おうか)でも信念対立があり、それが必然でもあるのだから、ホメオパシーと通常科学(医学)のパラダイムの激突において、「科学的合意」に至る道はどれほど長い道のりか・・・しかも、こちらの場合は留保にならず一方的な否定や排除という執行猶予になりがち。

現代科学(医学)・・・メンドクサイから通常医学にしようか・・・の側にいる人たちは、通常医学というパラダイムにおける理論に基づいて、つまり通常医学の理論を「背負って」、あるいはそれを背景にして対象を観察している。
これを『観察の理論負荷性』というそうなんだが、要するに、

観察とは、対象となる事実をあるがままに写し取ることではなく、むしろ理論的枠組みに合わせて事実を積極的に〈選択〉し〈解釈〉し〈構成〉する行為なのである。
ここに、理論は経験的観察を基盤にして形成されねばならないにもかかわらず、逆に観察は理論を前提し、それによって制約されている。
増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)

科学研究とは科学者が何の前提ももたずに〈虚心〉に自然と対することによって遂行されるものではない。科学者は常に、一定の〈先行的了解〉あるいは〈先入見〉をもって自然に望むのである。
(同上『増補 科学の解釈学』)

同書によれば、これは『科学者の行動を律する一種の〈共同規範〉にほかならない』ので、『科学者たちがそれを明示的に意識することは稀』なのである。

そうでなくても、私たちが見るものは、単なる「網膜に映る像」に還元することはできず、たいていは私たちがもつ知識や期待感、あるいは文化的な生い立ちなどといった「心的状態」に大きく影響を受けている(哲学の基礎 )。

この理論負荷性のテーゼに照らし合わせれば、通常医学の立場からは(それと知らずに)通常医学のロジックでしか議論をせず、自らの理論の尺度で別の理論を計ろうと固執することになる。
もちろんこれは、ホメオパシーの側でも同じことだ。

トーマス・クーンによれば「ある意味では、対立するパラダイムの支持者は、異なった世界で仕事をしている(科学革命の構造 )」のである。
これが、『通約不可能性』ということだが、池田清彦によれば、「理論が違えば何かしら通約不可能性があるのは当たり前(構造主義科学論の冒険 (講談社学術文庫) )」である。
しかるがゆえに、何らかの合意を図ろうとするならば、各論者がこれらの〈先入見〉を取っ払って議論しなければならず、出来ないようであれば、いつまで経っても水掛け論に終始する。

しかし、もしここで、それを律している〈共同規範〉が吹き飛ばされるようなことがあれば、それはパラダイム・シフトが起きるということである(ちょっと単純化しすぎだが)。

パラダイム・シフトとは、

現存の理論は観察事実によって否定されるのではなく、別の新たに出現した対抗理論によって否定され、公認理論の地位を奪われる
増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)

ということ。
私はホメオパシーの理論が、そこまで通常医療のパラダイムからかけ離れたものだとは思わないけれども、ホメオパシーを通常医学側が認めるというのはパラダイム・シフトに等しい出来事であるに違いない。

現実には、ホメオパシーの理論が、まだまだ強固なものとなっていないために、公認理論とはなっていないので、パラダイム・シフトは先の話となる。

それは楽しみとして取っておくとして、
何が科学的事実であるのかを規定するのは、その当の理論的枠組みであるという理論負荷性を引いてくるならば、現在の社会のスタンダードになっている通常医学や科学の枠組みの中で科学的であることを示さなければならない。

パラダイム・シフトが起きるまでは、共にその理論を背負って議論するから結論がなかなか出ないし、社会的認識の枠組みは変わらない。
そこでどうするかというと、通常医学による評価方法であるメタ・アナリシスやその元になっているRCTなどの実験で証明しようとすることになる。
これは通常医学の土俵に乗ることを覚悟の上で、ある意味仕方なくやるわけだ。

メタ・アナリシスでなければ、RCTでなければ・・・というのは通常医学のパラダイムである。
ご存知の方も多いと思うが、多くの補完代替療法は、このRCTに馴染まない(鍼やカイロプラクティックで『擬似施術』ということを想像してみると良い)。
「だから科学的じゃない」と断ずるのは、まあ「通常科学的」には正しいのだが、科学主義という観点からの一方的な支配・抑圧とも言える。
これは、何か絶対的な真理があって普遍的に正しいという偏執狂的な幻想を背後に抱えた姿勢であり、結局は科学者の多くが嫌う一神教に通じるもの。普遍的な真理を唯一の神とする科学主義という一つの宗教を形成していることに気づいていない人が多い。
(ちなみに私は宗教を否定していないし、ネガティブでもないので、念のため)

ともあれ、メタ・アナリシスなりRCTなりで実験をすることは、よく言われているようにホメオパシーにとっては不利である。
「熟練したホメオパスがレメディを選んで実験すればいいじゃないか」という意見も時々聞くのだが、これは通常医学が認めない。
例えば、喘息患者を対象にして何人かのホメオパスにそれぞれの患者のレメディを選ばせると、そもそもホメオパシーは喘息という病名ではレメディを選ばない(個別化)ので、喘息の実験に対していくつものレメディが出てくる可能性が高い上に、それぞれの患者にじっくり話を聞くことになるので二重盲検にならない。
つまりRCTとして認めがたい実験になる。
また、この方法で大規模実験を行うとなると、時間もお金も相当掛かる。残念ながら、ホメオパシー側は、そんなにリッチじゃないので、誰かがスポンサーにならないと出来ない。
けれど、このスポンサーがまたバイアスのネタとなる可能性があるので、これまたケチのつけどころとなる。
こうした諸々の制約条件があって、しぶしぶ特定のレメディを「適当に」割り当てて実験することになるわけだ。

そうしていささかホメオパシー的な方法論ではない実験においてさえ、ホメオパシーにポジティブな結果がいくつも出ている。
ネガティブなものもある。だがこれは通常医学でも同じこと。
ところが、いくらホメオパシー側が「(あなたたちの要求する方法で)科学的に証明しました」と主張しても、なんのかんの言っては否定するということが繰り返されているのが現状なのである。

しかも、メタ・アナリシスやRCT自体も完璧なものではなく、あくまで現時点で最良というもの。
実験プロトコルに恣意的な操作が介入する余地があるし、統計的な処理を施すことから解釈にもバイアスが掛かる可能性もあるものである。
実際、バイアスが掛かった実験の存在は、通常医学のRCTでも指摘されている。

世間の人は、「要は科学的に信頼出来る研究をすればいいじゃないか」「証明すればすむこと」と簡単に言うのだけれど、そもそもランセットのメタ・アナリシスのように、悪意をもって恣意的に否定するような行為が正当化されるような社会では、一体どうすりゃいいんだろうね?というのが関係者の共通の失望感だろう。

ここへ来て、私としては、「科学的認識が一定の「関心(利害)」に導かれている事実を強調し、それから目をそらす〈科学主義〉における認識問題を再考させ自己批判を促す」というハーバーマスの『批判理論』を拡大解釈(曲解)してみたくなる(認識と関心 他を参照)。
純粋な研究者の方には怒られそうだけれど、『利害』が大きく働いているでしょということ。

科学は、そもそも研究すべきものを選択する場面において、人間の側の関心によって駆動されているのである。この点で、「対象に対して虚心坦懐、無前提的に研究する」という科学のイメージは正確なものではない。
哲学という地図―松永哲学を読む

科学的事実を定義付けるのが理論的枠組み(理論負荷性)であり、その理論形成を先導するのが関心であるから、科学が政治・経済的利害と結びつき易い現代社会においては、関心のありよう、すなわち利害関係がどう絡んでくるのか自己批判・反省が必要であるとハーバーマスは主張している。
私は、議論がそういった前提に戻っていますか?とムリを承知で問うているのである。

ホメオパシーに肯定的な研究はたくさんあると私は書いた。
実際、様々な研究成果が発表されている。にもかかわらず、とにかく認めたくないようなのである。
Shang によるランセット掲載メタ・アナリシスや最近の一連の新聞報道は、そうした不毛な科学論争の低俗版である。
とはいえ、各論者のとる態度は、本質的には『理論負荷性』や純粋な(?)『利害関心』といった科学哲学や解釈学の文脈の延長線上にあるのである。

したがって、特段悪意や利害がなくても、信念対立から受け入れられないという力学は働く。悪意があろうとなかろうと、本質的にはキリがないものである。
その上に、人は自分の見たいものしか目に入らないもの。とにかく否定したい、信じたくない人は、何を出そうが否定するものだから、そういう人には科学的以前の問題で、何を言ってもムダだよね。

ロジャー・フェデラーの熱烈ファンの人に、ラファエル・ナダルの追っかけになれと言ったところで、その人を『改宗』させるのは、よほどのことがない限り難しいだろう。
今、世の中で起きていることは、これと本質的に同じ文脈にあるのである。

それでも、とにかく証明して、認めさせてやると頑張っている人たちも数多く存在する。
こうした、通常科学の文脈にならって証明していくという努力や柔軟性も、謙虚にホメオパシーの進化を追求するという側面からも必要である。
今後に期待しよう。

さて、またまた長くなった。本当に追記か・・・

まとめのような、まとめじゃないような感じになるが、
私が前回の記事とこの追記で指摘したいのは、議論以前の態度の問題だということ。
ハーバーマス的には、自己批判。
念のため断っておくと、対象は専門家(科学者・医者など)。

科学者なら、あるいは科学的な議論をするなら、科学的なマナーに則って、科学的な態度でやりなさい。
1つの論文だけを拠り所にしたり、ましてやその論文を自分で検証することなしに、一流雑誌に掲載されたという理由だけで無前提に真とする態度は、全く科学的ではない。
各所で散見されるのは、「それは○○の論文で否定されています」という言明だが、それで科学的に否定されたと判断するのは相当ナイーブな論理であり、単に「その人を信じます」とか「その雑誌を信じます」と言っているのと変わらず、科学的批判精神とは程遠い。

逆に少し突っ込んで自己批判すると、そうした行為を批判的に判断するリテラシーが、報道などを受け取る側に乏しいのが悲しい現状とも言える。
(ただ、新聞報道については、しつこくて極端なので、何かちょっと変じゃない?と思い始めている人もいるようである)

ともあれ、専門家でない一般の人ならまだしも、科学者や専門家が公の場でそういう発言をしているとなると、本当に科学者?と疑いたくもなろう。
日本学術会議のコメントでも、まともな論拠は示されていないが、「そんな必要はない。我々は正しいのだから」ということを暗示しているのだとしたら、それは科学の衣を纏った権威の誇示・権力の行使であり、政治的行為である。

こういった文脈を引いてくると、今回の日本の報道に限らず、ヨーロッパなどでも展開されている『ネガティブ・キャンペーン』には、どうしてもある種の悪意を感じてしまう。

陰謀論でキリがないという見解もあろうが、ここまで私が述べてきたことと実は同じで、論理の無限後退に陥るから、それは何も指摘していないのと同じこと。

まあ、私がここで述べていることも、キリがないことをキリがないと言っているようなもの。
疲れるよねぇ・・・でも、そういうことなんだ(笑)
それでも、とにかく前に進んでいくしかないのです。

好奇心と勇気と希望、これらが『創造的意欲』としての科学の源泉なんじゃないかな。(2010年9月10日補記)

で・・・むしろ問いたいのは、彼らの根底にある『利害関心』が、社会権力やカネに繋がっていないと、どうして断言できるのか?
(もちろんホメオパシーにも同じ問いが返ってくるが、現在の社会的立場からみれば、どう考えても政治力・経済力に乏しいから、利害の振幅が圧倒的に小さい)

署名運動に走る心理(真理)というのは、こういう流れなのだと推測する。
政治とカネに対しては、市民運動しかない・・・とまでは言わないけれど、1つの対抗手段ではあるのだ。
非科学的活動には、非科学活動で、なんだなぁ。

ひとまずこれで次の話題に移ることにする。
やれやれ・・・

(つづきます)

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