多種混合レメディ、あるいは多種同時投与は、いつの世でもホメオパスを魅了し、誘惑し続けて来たに違いない。
「Organonにまつわる話し」でも述べたように、
ハーネマンの時代から、ポリファーマシーの萌芽はあった。
純粋な実験・体験の観察こそが、何よりも重要であると考えていたハーネマンは、当然ながらポリファーマシーを試してみた。
結果的に、成果が不確実であるということで棄却したが、ハーネマンの実験からも、効果が無いと言う訳ではなかった、ということは読み取れる。
では、ポリファーマシーの何が問題なのか?
これは、結構、ホメオパシーの根源的な哲学に関係していることである。
それは、治癒に対する理念、結局は人間存在に対するアプローチの違いから生じるものと思う。
ポリファーマシーが何らか作用するということは、クラシカルにも分かっている。
ここでは、「クラシカルはなぜ、ポリファーマシーを避けるのか?」
という観点からの考察になるだろうと思う(たぶん・・・)。
まず考えなければならないのは、
レメディの全体像=効果は、どのように検証されるのか?という事である。
レメディがどのようなパターン(全体像)の人を癒すかは、ご存知の通りプルーヴィングという作業によって確かめられる。
プルーヴィングによって記述されたパターンは臨床で確認された上、更に、臨床でどのような人を癒したかも追加される。
ここで、プルーヴィングに使われる物質は、1種類である。
パターンであると言うのは、結局、レメディ像として挙がっている全ての症状とピッタリ同じものを持っている患者さんというのは滅多にいないから、それぞれの症状が全体として織り成す傾向、すなわちパターンを全体像とする。
これが「十分に似ている」という意味だと考えてもらえば良いと思う。
(あまりピンと来ないかな・・・)
お問い合わせのあった、高すぎるポーテンシーの弊害は、高いポーテンシー=強いエネルギーであり、病気のエネルギー(=症状)と似たようであるから、レメディのエネルギーに晒された時、そのエネルギーが強ければ強いほど、元の症状は悪くなったように感じる場合が多い。
(ハーネマンは、病気のエネルギーより僅かだけ強いエネルギー=ポーテンシーのレメディが、病気を取り除くと述べている)
ここで、患者の症状とレメディの症状が完全にイコールではない(やや似ているだけ、と仮にする)場合、その人の幾つかの症状が好転反応を起こし(または好転反応を体感せず単に改善し)、レメディの症状が部分的に現れる(プルーヴィング)ことがある。
これは一例であるが、ポーテンシーがあまりにも高いと、レメディがシミリマムであっても強い好転反応が出やすく、シミリマムでない場合、患者が元々持っていない症状が出る、あるいは別の反応(マヤズムが立ち上がったり)が出る可能性がある訳である。
複数のレメディをハイ・ポーテンシーで投与すると、こういったことが複合的に起こり得るため、予期せぬリスクを抱えることになる。
それが、患者さんに優しい方法なのか?
良く考えなければならない。
混合レメディのプルーヴィングというのは、少なくとも出版されたものを、私は見たことがない。
同様に、マテリア・メディカも、混合レメディについて記述があるものを見たことがない。
単に私が知らないだけという可能性があるが、少なくとも有名なマテリア・メディカにそのようなものはない。
プラクティカルの人は相当多いと思われる、ということを考えると、これはある意味異常な状態ではないか?
プラクティカルの人は、当然の様に、混合レメディを使う。
しかし、混合レメディの症状像・パターンは、出版ベースでは殆ど明らかにされていない。
どれとどれのレメディを混ぜると、○○の症状像になるという事は、殆どの組み合わせ(混合)について、まだ分かっていないかもしれないのである。
例えば、プラクティカルの大御所であるRobin Murphyのマテリア・メディカには、混合レメディの記述はない。
実は、前の記事で参照した彼の方法論についての本にも、混合レメディについての記載がない。
Murphyって、プラクティカルなの?というヘンな疑問も出てきた(笑)
Anyway、1つの物質からなるレメディは、それぞれ独特のパターン=全体像を持つ。
全体像が良く知られていないレメディも多いが、それは単にまだ知られていないだけである。
というのが、レメディ像に対する普遍的な考え方である。
混合レメディに何らか効果があることは分かる。
だが、組み合わせによってどういう作用が生じるかについて、恐らく誰も整理していないというよりは、整理出来ないのであろう。
これがハーネマンの言う不確実さだろうと思う。
上記のような不透明さから、混合レメディについての批判でよく耳にするのは、
「Intellectual Laziness(知的怠惰)」
というものである。
この言葉には、2通りの批判が込められていると思う。
1つは、上で述べたような、混合レメディの全体像が記述されていないこと。
もう1つは、クライアントの全体像を深く探求することをせずに、
似たような症状を持つレメディを複数組み合わせて投与して、どれかが当たるだろうという、安易な方法論への批判である。
適切なレメディが見つかるまで、クライアントを待たせるのは酷だという意見もある。
それは一理あると思うが、混合することによるリスクが評価されていない。
作用の仕方が明らかになっていないのであるから、リスクもおのずと未知数である。
レメディの作用は、微細なエネルギーの共鳴現象であると考えられているが、異なる複数のエネルギーの波が、クライアントの生命エネルギー(氣)の波に出会った時、どういう反応をするかは分からない。
永松昌泰氏が述べるように、レメディは成分が成分へ、つまり物質が物質に働き掛けるというものではないため、
複数のレメディを混合した時に、その効果が必ず「1+1=2」という訳ではなくて、
0. 5になったり、場合によっては1.2になったりするかもしれない。
(「ホメオパシー入門
」永松昌泰著)
我々は今までの所、否定派も当然のごとく主張するように、レメディの作用機序を明確に知り得ないのである。
であるなら、臨床での経験によるしかない訳であるが、
一体、何通りの組み合わせが出てくるのか?
極端な事を言うと、行うホメオパスの数だけ存在する。
そして、前の記事でも少し述べた様に、ケースのマネジメントが難しくなる。
例えば、アトピーのクライアントに、
マヤズム=Psorinum
過去に受けたインフルエンザ予防接種=Influenzinum
アトピー=Calc、Merc、Sil、Sulph、Graphのコンビネーション
という投与を行ったとする。
(レメディは当てずっぽうですので、念のため)
クライアントは、すっかり治った。ヨカッタ、ヨカッタ。
・・・いつもこうなって欲しいものだが、さて一体、どのレメディがこの人に効いたのだろうか?
または、この内の2つか3つの作用により効いたのか?
どれが無ければ、もっと速やかに治癒が起きたのか?
無論、治癒が起きたことは何よりも評価されるべきである。
しかし、この投与を、似たような全体像を持つように見える別の人に行って、同じ効果があるとは限らない。
人によっては、えらい毒出しに長期間悩まされるかもしれない・・・
その毒出しが、好転反応なのか?
これらのレメディの内、どれかが好転反応を引き起こし、どれかが毒出しを引き起こしているのか?
複合効果で好転反応なのか?毒出しなのか?
どの症状が、どのレメディによって引き起こされたのか?
どれが治癒的に作用して、どれがそれを妨げたり、補助したりしているのか?
たった1つだけが作用していて、他のものは何もしていないのか?
更に、上記の投与によって何も起きないかもしれないが、実はこれらの内のどれかがシミリマムであったのに、他のレメディによって効果を相殺された可能性だってあるのだ。
この場合、シミリマムが棄却される可能性もある訳である。
・・・これらを、どのように評価するのだろうか?
次回のコンサルティーションで、
投与を変えるべきか?
変えるとしたら、どのレメディを変えるのか?増やすのか?減らすのか?
好転反応と判断して、引き続き投与を続けるのか?
これらの事が整然と理解されているのであれば、凄いことだ!
現代医学の医師による金言集「ドクターズルール425―医師の心得集
」クリフトン・ミーダー著 福井次矢訳でも、
「投与する薬の量は最小限にせよ」
「可能なら全ての薬を中止せよ。それが不可能なら、できるだけ多くの薬を中止せよ」
と述べられている。
現代医学でも、複数、しかも多数の薬を同時投与した場合の臨床試験というのは殆ど行われていないだろうと思う。
(もっとも臨床試験が行われていても、結果にバイアスが掛かっている実験も多いらしいから、必ずしも信頼出来ないし、長期の服用については特に、薬以外の要素も複雑に絡み合ってくるから評価は難しいであろう。)
比較的作用機序の分かりやすい現代医学の薬でさえ、複数の薬が体内に入ったら、長期的にどういう作用をするのかは、よく分からないはずなのである。
ポリファーマシーで使われるレメディが増えれば増えるほど、何が起きるか分からないし、起きた事の評価も難しくなる。
不確実なだけでなく、余計な忍耐(毒出し)をクライアントに強いる可能性もある。
Ian Watson(プラクティカル・ホメオパス)は、以下のように述べている。
私が確かめた限りでは、型にはまった処方をすると、それらのコンビネーションはかなり高い確率で緩和的に作用するか、あるいはまったく作用せず、治癒効果はより少ないようである。
このような理由から、私は単独のレメディを処方するか、可能な場合は常に個別化した根拠に基づいて複合的な処方をするのを好む
(「A Guide to the Methodologies of Homoeopathy(邦題:ホメオパシー方法論へのガイド
)」より)
もちろん彼はプラクティカルであるから、
「あらかじめ、どの患者に多種投与がよりよいか分かっていれば、何のためらいもなく与える」と言ってはいる。
しかし、とにかくポリファーマシーというのではなく、その利用について慎重な姿勢を取っていることが分かるだろう。
Watsonの言う緩和的(Palliative)というのは、抑圧的(Suppressive)という表現よりもポジティブな表現ではあるものの、「一時しのぎ」という一種の抑圧であって、根本的な治癒(Curative)とは違う。
従って、マニュアル的に投与すると、治癒的には作用しない場合が多いと言っているのである。
レメディが抑圧的に作用しても、化学薬品による様な薬害は無いので、短期的にはさほど問題にならない場合が多いと思う。
レメディが自然治癒力(ヴァイタル・フォースや氣)に働きかける期間は短い。
しかし、ごっそりたくさんのレメディを使って、出てきた反応に対して、またたくさんレメディを使うという事が長期的に繰り返されるのだとしたら、当初緩和的で済んだものが、抑圧的になって・・・おや、これは随分アロパシー的(対症療法)である。
場合によってはプルーヴィングも併発するだろう。
こういうのを対症療法、あるいは医原病とは言わないのだろうか?
私は現代医学の薬同様、レメディの濫用には危惧を覚える。
これはホメオパスのやる事に限らない。
セルフケアでも同様である。
ネット上でも、
「マヤズム・レメディもガンガン飲んじゃいます」とか、
「風邪ぐらいなら、レメディで治しちゃいます」
といった発言も多い。
風邪ぐらいなら、通常、何も使わずに治す様にした方が良いと思う。
マヤズム・レメディって、何だか分かってて飲んでるのかな?
「ヒドイ生理痛がレメディ飲んだら消えたから、毎月痛くなると飲んでます」
それを、緩和的または抑圧的と言う。
ある程度痛いのは仕方ないかもしれないが、寝込むほどヒドイのはちょっと問題だ。
どうにかしたい・・・そりゃそうだ。
しかし毎月その酷さが襲ってくるというのは、そのレメディでは根本的な解決になっていないのである。
人によっては、それを続けている内に、新しい別の症状が出てきてしまったりする。
おっと、また脱線・・・(セルフケアの話しは、いつか別の機会に)
「数打ちゃ当たる」的な投与は、日本へのホメオパシー導入当初、
とにかく、何らか改善するようにレメディをヒットさせないと、クライアントさんが戻ってこないという葛藤もあったと言われる。
「ホメオパシー?なんじゃそりゃ?」と、いまだに言われることの多い日本であるから、当時の危惧は分かるような気もする。
本も幾らか出版されたりして、随分と利用する人の認識も変わってきた最近でさえ、やはり1回、2回で効果がないと、別の療法に走る人は多いであろう。
しかし最初から間違って流布してしまった可能性があり、今更後戻りも出来ないのかもしれないかも・・・と思える部分もある。
それをあるべき姿に戻そうと、どちらかというとクラシカルが忍耐を被っている部分だってあるんですぞ!(笑)
この辺、ホメオパシーによるプロセスや癒しがどのようなものか、どうか今一度、クライアントの方々にも、認識していただきたいのであるが(お願いしまーす)、
少なくとも、「数打ちゃ当たる戦術」は、やめて欲しい。
確かに、学校卒業したばかりのホメオパスでも、それなりにやって行けるシステムなのかもしれないけど・・・今はもう随分支持者もいるのだから、そうする必要もありますまい?(そうでない慎重な人たちもいることは、私も知っています!)
さもなければ、やはり「知的怠惰」なのだと思う。
ポリファーマシーによって、運良く順調に治癒がもたらされれば、クライアントはハッピーであるが、ホメオパスにとっては、万事OKという訳でもない。
「どれが効いたか分からないため、ホメオパスの学びの機会が失われる」というのは、ホメオパス側のエゴである、という人もいるが、本当にそうだろうか?
クライアントのサポートを、責任を持って行うためには、少しでも不確実性・不明瞭な部分を排除すべきではないだろうか?
レメディの反応、クライアントの状態を、可能な限り的確に把握する、つまり学びを得て、以降に生かして行く、それが最終的にはクライアントに対する責任を果たすことになるだろう。
慎重に慎重を期しても、人間の行為には不確実性が残るものである。
現代医学でも(科学でもいいが)人間についてまだ良く分かっていない部分が多いのである。
ホメオパシー哲学の根底には、人間という存在を理解するのは深遠で困難な事という、ある種の畏怖に似た、生命に対する尊敬がある。
そこに出来るだけ人間の手を加えないこと、それがホリスティック・ヒーリングの姿勢の1つでもあり、クラシカル・ホメオパシーの目指す所でもある。
それゆえ、「ホメオパシーは安全である」という言明も出てくる訳であるし、ナチュラル・ヒーリングで、心身に優しいということになるのである。
少なくとも現状、ポリファーマシーは利益も損失も、シングルレメディに対して不確実・不明瞭である。
その事が、効果が無いという結論には結びつかない。
場合によっては、驚くような効果があるだろう。
ある意味、この面でホメオパシーは、まだまだ研究の余地があり、発展途上であると言える。
クラシカルの方法論もまた同様である。
しかし、分かりにくい事を、更に複雑にしてリスクを増やす理由は、クラシカル・ホメオパスには見つからない。
いや、トラコパシーでは、こういったノウハウが蓄積され、シェアされていると信じたい。
願わくば、日本のプラクティカル・ホメオパスにも、「効果があります、素晴らしいです」&「毒出しです」という以外の説明が欲しい。
効果があるという事は、多くの人が納得しているのだから。
ついでに言っておくと、不確実な大量投与で、レメディ代が別料金というのは、不明瞭な(余分な)対価が掛かっている可能性があることを指摘しておく。
自らの団体の相談料が適切であると主張する前に、省みて欲しい部分である。
必要なのは、コミュニケーションである。
出来れば、個々のホメオパスが「自分の言葉」で語ってもらいたい。(どうも版で押したように、同じ様な説明しか聞かない。宗教っぽいと言われる要素はあるだろう)
特別に科学的である必要もないのだ(笑)
何が分かっていて、何が分かっていないのか?
結局、ホメオパシーとは、Phenomenon=現象、つまり「何が起こっているか?」を見つめることなのである。
それを、ホメオパスとクライアントが共に見つめて行くのが、コンサルテーションの姿でもあり、ホメオパシーが健全に発展するためには不可欠な姿勢だと思う。
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