プロパガンダ

暑い日が続いておりますが、お元気でしょうか?

さぶーい情報が入りましたので、いいタイミングかな(笑)

どこかで、私のHPの記事を取り上げて、それに反論するということが行われているらしい。

へぇぇ~、結構有名になったもんだ(笑)

まあ、一々それに対してまた反論するのも時間の無駄で不毛な事なんだけど、一応、ちょっとだけ書いときますか。

まず、全体の話の中の一部分だけを取り上げ批判するのは全く公平でないと考える・・・という主旨の事を言われているようである。

そのままそのお言葉をお返ししましょう。
ちゃんと人が書いていることを熟読してから反論してもらいたいものだ。

実際、私の言いたいことはそれだけです。

それから、私が特定の人たちを非難しているように感じる人がいるのかもしれない。
いや、実際批判はしているのだけれど(苦笑)、評価するべき所は評価しているつもりなんでね。
そう読めないとすれば、私の文章力の足りなさによるので、ここで一応強調しておきたい。
ただ、賛同はしてないよ(笑)

これまで、全般的な議論として日本の現状が不毛だという事を私は言い続けている訳です。
今のこの記事も含めてね。
別に私は自己批判も恐れないもの。

いいかげん、どっちが正しいとか、真実だとか、ホメに限らずウザいの!!(笑)

自分は正しいことをしよう!良いことをしよう!そう信じて行動することは大事なことだと思う。
内省を挟みつつ、その道を歩み真実を探求することは素晴らしい。

しかし、その信念を、我こそが正義なりと他人に押し付けると、戦争になる訳でしょ?

ホメに関して言えば、どの人、どの人たちが、どういう事をしているのか?何をしようとしているのか?
それを明確にしておきましょうと。
私は、プラクティカルとかを否定してるんじゃなくて、「良く分からん」と言っているだけ。
分類云々の記事の主旨は、そういう事です。

ちゃんとメニューを整理して、後は、選択する人の自由でしょう?
でも、読みにくいメニューは、困るよねぇ。。

えっ?オマエの言ってることも信念の押し付けだろう??

うーん、そこは微妙な突っ込みだな(笑)

私は今まで、日本のホメオパシー界に対しては、結構アロパシーだったかもしれない。
あまりにも両極端に振れ過ぎていたと思うのでね。

その論旨は、ワザワザこんなマイナーなブログを好意的に読んで下さっているマニアの方には、ご理解いただけているんじゃないかと思う。

まあでも、やっぱりアロパシーでは限界があるんだね。
必要な局面もあるけどね。

信念対立を指摘し、問題提起をするというフェーズは、もう終わったと思う。
ネガティブな引き寄せもあるしね。今回の事も(笑)

実際、私はもう疲れた、こういうの。
ネガティブ・エネルギーに付き合ってると、自分もネガティブになって行くんだよね~
なんでまあ、後はこの記事にまた反論するなり、好きなようにして下さい。

そろそろ、新しいステージに行くべきだと思う。
もっとこう・・・我々が見つめる先に何があるか?それを純粋に考えて行きたい。

ここ最近は、そんな境地ですよ。

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一体ホメオパシーってなんだ?

マイミクの方から質問をいただいた。

「クラシカル・ホメオパシーって何なんでしょう?」

日本のクラシカルは?ということで、叱咤激励をくださったのだが、
いやこれは・・・耳が痛い(>_<)

その方いわく、色々なHPを見て回ると、
プラクティカル(要はホメジャ)と区別がつかないようなクラシカルが結構いるとのこと。
あー、私もその一人かもしれないのだが・・・(汗)

まあ我々、法律で表現が制限されていて、様々な方便を駆使しなければならない事情があるにしても、
ユーザーの方に「クラシカルっぽくない」と言われると、ちょっと重いね。。

  • 原則シングル・レメディです
  • インナーチャイルドキットとか、そういう摩訶不思議なものはオファーしません
    (コンビネーションのキットのようなものはオファーしません)
  • 西洋医学の治療を止めろとは言いません(むしろ併用してください)
  • コンサルテーションでは、お話をじっくりお伺いします(長時間)
  • ホリスティックな癒しを目標とします

これまで言い続けてきたので、簡潔に上記の前提で認識してください。
・・・してるよね?(笑)

さて、そんな話とも関係するが、最近色々と情報が入って来た。

なんでも、某医師の団体に属するホメオパスは、
コンサルテーションが15~20分程度で「全体像は観ません」と宣言しているそうな。

なんですか、それ?

呆れている所へ、ある週刊誌でホメオパシーの事を書いている医師が出てきた。
この人は、やはり某医師の団体所属で、言っている事は上記を裏付ける。

この人たち、病名でレメディを選んでいるような。。結局の所、対症療法なんだな(爆)
(この団体のコースを受講した方も、そういう印象を持ったそう)
レメディを使えば、ホメオパシーだと思ってる。

この某団体は、代替医療の総本山(?)帯津良一先生が会長の団体である。
うぉぉ・・・帯津ファンとしては心苦しいが、ホリスティック医療とか、統合医療って何なの?

ホリスティック医療という高みを目指すその途中に統合医療がある
・・・という事だったと思うのだが、これではタダの「コピー&ペースト」

こうやって、伝統療法も心ない医師によって骨抜きにされて行くのだなぁ・・・
医師主導になるのは仕方ないんだけど、医師の「都合」で統合とかやると、結局こういう方向になるのかねーと、統合医療への期待もガッカリ感強し。
(まあ上記の人たちが統合医療やってるというのでもないのかもしれないのだが・・・ちょっと脱線)

症例漢方もあるから、そういうホメオパシーがあっても良いんじゃないかと、そう思うのかな?
ホメオパシーは、なかなかそうは行かないと思うぞ。
漢方だって、証を診て処方している人は怒ってるんじゃないか?
ま、少なくとも、ホリスティックではなくなるよね。

それでね、この団体、医師じゃないと危険だからとか、代替療法も医師が行わないと法律違反だとか、主張しているわけだけれども、
あるクリニックで、患者にレメディ飲ませて、全然効かなくて、結局病院送りになった人がいるとかいうウワサもある。

で、結論が、だから医師がやらなきゃ危ない、のだとか(唖然・・・)
全体像を見ないでレメディ選択して、そりゃー効かないか、効いても一時的でしょ。
徹底的に研究するということをせずに、医師免許持ってるというだけで、伝統ある療法をいい加減に利用する方がよっぽど危険でしょう?

あのね・・・神の手を持つと言われる天才脳外科医の福島先生だって、ご自身の専門外の分野のキャッチアップをするのは難しいとTVで言っていた。
福島先生の場合、目指すレベルが違うのかも知れないけどね。。

この人たちの論理で行くと、その内、気功も食事(栄養)も瞑想もヨガも・・・みーんな医師がやらないと危ないなんてことになる。
それぞれを極め尽くす余裕あるんですか?

効かないとか、時間が掛かるとか、科学的でないとか、
代替療法や民間療法をさんざん下に置いといて、いざとなると自分達に都合の良い所だけ持って行こうとするのは、
これまでそれらの療法を守り続けてきた先人達への冒涜であろう。

患者さんも、15分って・・・ホメオパシーに来たのにと、ガッカリされる方もいるんじゃないかな?
結局は、患者さんに対する冒涜なんじゃないかと思う。

こういうのホメオパシーとは言わない!
まあ、あの、クラシカルとはこの人たち言ってないけどさ・・・
また、統合医療・・・まではいいかも知れんが、ホリスティックとか言えるものではない。

ホメオパシーは、微細なエネルギーに働きかけ自然治癒力を目覚めさせて、
自然の流れに沿った自律的な癒しをもたらす安全なホリスティック療法なんです。

ホリスティックな癒しを目指すんだから、それなりに難しいし時間が掛かることも事実。
(そういう高みを目指しているんでしょう?)
それをショートカットしたいのだか何だか、都合のいい合理主義を持ち込んで、わざわざ危険なものにしなさんな。
しかもそのやり方、ちっとも科学的じゃないぞ(笑)

それならいっそ、海外の有名ホメオパスから頻繁に学んでいて、
近頃、その方法論に修正を加える柔軟さがあるホメジャの方が相当マトモ。
(今までは何だったか?と思う部分はさておき)

少なくとも、メニューは分かりやすく・・・ってことですね。(私も気を付けます)
ホメオパシー受けに行ったつもりが、違うものだった~ではガッカリだものね。

以前も紹介したが、
ハーネマニアンとして名高いホメオパス(医師)であるLuc De Schepperは、
“Talking homeopathy” while “walking allopathy”
ホメオパシーの話をしながらアロパシーを行っている
・・・ような人を、Pseudo-homeopath、いんちきホメオパスと呼んでいるのである。

ホメオパシーを求めていない人には、関係ありません、ハイ。

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裏ブログ始めました!

ホメオパシーのマニア向け(?)のブログを始めました。

ホメオパシー道場@銀座横丁

主にプラクティショナーとセルフケア実践者向けです。
(まだセルフケアのことは書いていませんが)

今、私が主に使っている、「センセーション・メソッド」について連載中です。
Dr. Rajan Sankaranやボンベイ・スクールの先生たちが教えていることなどを元に、私の迷いの跡を記録している感じ・・・

これからやってみよーという人と、何かを共有出来ればいいなと思っています。

相当なマニア向けですが(笑)、クライアントさんにも読んでいただいて、センセーション・メソッドでは、ホメオパスが何をしようとしているかについて、ご理解を頂けると、コンサルテーションもより実りの多いものになるのではと期待しています。

まあ、ブログ2つ両立というのも大変ですが、
近い将来の「ホメオパシー道場」の確立を目指して書いて行きます。

どうぞよろしくm(_ _)m

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自分の奥底を語りたくない

前の記事で、コメントを頂いた内容に関連したことであるが、
自分の事を描くことや、表現豊かに語ることが苦手な人は結構多い。

特に、ホメオパシーのコンサルテーションで、更にホメオパスが使うメソッドがセンセーション・メソッドとなると、かなり大変かも知れない。

インドのDr. Rajan Sankaran率いるボンベイ・グループの先生方が開発しているセンセーション・メソッドでは、患者の中核を貫くエネルギーの表現を探ろうとする。
それを「ヴァイタル・センセーション」とか「グローバル・センセーション」と呼んでいる。

センセーション(Sensation)とは「感覚」という意味で、元々は身体感覚の事を指す。
身体のある部分で感じるものであるから、「よりローカルな」感覚である。

ヴァイタル・センセーションとは、「時間も場所もなく、いつもそこにある感覚」を指す。
(ちょっとここでは詳しい説明は避けますが・・・)
人生のいかなる時も、どんな場所(身体・心問わず)でも、その人の根底にあって心身の反応・表現あるいは症状などに影響を及ぼすもの。

しかし、多くの人は、この言わば「魂の叫び」を可能な限り表層に出ないようにしている。
主に社会生活に適応すると言う目的で。
それは人間という動物としてのネイチャーであるのかもしれないし、あるいは文化・教育の産物ということなのかもしれない。
遺伝子のせいだと、言う人もいるかもしれない。

センセーション・メソッドでは、無意識であるかを問わず、このセンセーションに対する適応として我々が取る行動は、3つに分類されるとしている。

  • アクティヴ・リアクション(Active reaction)-センセーションに打ち勝つ、乗り越えようとする状態、反応
  • パッシヴ・リアクション(Passive reaction)-センセーションに打ち負かされた状態、打ち負かされた時の反応
  • コンペンセーション(Compensation)-センセーションを感じない様にする、避けている反応、状態。なんとかセンセーションを否定しようとする

これらの行動・反応によって、ヴァイタル・センセーションは、無意識にあるいは意識的に隠され、見えにくく(感じにくく)なっている。
それゆえ、意識上で知覚・認識するコトバとして表現するのが難しいのである。

ざっくばらんな例えをすれば、
「本能的(無意識的)行動に抑制が掛かっている」ということだ。

自分を表現し、描くという作業、ましてや内面奥深くの感覚を、他人にコトバで分かってもらうように伝えるというのは、大変な作業なんですよねぇぇ。

コメントを頂いた雅さんへの返信として書いてみました。

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イラストでわかるホメオパシー

イラストでわかる ホメオパシー (GAIA BOOKS)
アレクサンダー・ゴーテ/ユリア・ドリンネンベルグ(イラスト)著 
由井寅子監修 手塚千史/高橋紀子翻訳

ホメオパシーのレメディについて、イラストを使って説明した本。

ユニークで、時に辛辣なイラストで、レメディ像を描き出していて、楽しく学べる良書。

学校でホメオパシーを学んでいる人にも役に立つが、
セルフケアでホメオパシーを利用している人に是非読んで欲しい本である。

セルフケアでレメディを利用する人は、
まず、この本に書いてあるような事をしっかり身につけて欲しい。
やたらにマテリア・メディカやレパートリーに手を出す必要はない。
それはむしろ危険な場合もある。

本書で描かれているレメディ像で十分という訳ではないが、
イメージとして特徴を頭に思い浮かべる事が出来るようになれば、
その先の勉強が効率良く出来るはずである。

また、患者としてホメオパシーを利用している人にも、是非読んで欲しい。
ホメオパスが、コンサルテーションで何を知りたいのか?
それを知っておけば、コンサルテーションでの受け答えもやり易くなると思う。

この本をホメオパスに突き出して、
「私はこのレメディだと思います」とか、「どうしてこのレメディじゃないんですか?」
ということはまあ、避けて欲しいが(笑)

「何でこんな事聞かれるのかな?」とか「この人は、私の何を知りたいんだろう?」
あるいは、「この人は私という人物像をどの様に捉えているのだろうか?」
と感じたことはないだろうか?

ホメオパスは、症状・状態とか、子供の頃の事とか、好きな食べ物といった、
ある意味断片的な情報を、方々から集めて、特徴的な人物像を描き出したいのである。
それはまた結構、患者にとっては不本意かも知れないが、
本書で描かれている様な、デフォルメされた、いびつな像でもある。
単なる全体像ではなくて、その全体像を特徴付けているもの、パターンが必要なのだ。

その作業のためには、言うまでもなく患者の協力が必要である。
あなたが、あなた自身の体験を語らなければならない。
ホメオパスに、あなたの代わりは出来ない。
あなたが上手に絵を描ければ、物語を語れれば、その分だけホメオパスがレメディを見つけるのを助けることになる。
それは結局、あなたが便益を受けることになるのである。

この本を読んで、ホメオパスの頭の中にあるイメージに触れておくのも、
患者にとって良いことだと私は思う。

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超希釈の効果

ホメオパシー的に希釈された水に効果があることを示す研究が発表された。
オーストリアの研究チームの数年に渡る実験によるもの。

主役は、カエル君である!Well done!!

おたまじゃくしからカエルになる期間に、サイロキシン(Thyroxin)という甲状腺ホルモンの一種に晒されると、変態の速度が速くなることに注目して、
一旦、サイロキシンに晒して、その後、ホメオパシー的に希釈されたサイロキシン溶液に数回晒したおたまじゃくしと、タダの水に晒したものの成長速度を比べるというもの。
ランダム化比較実験である。

まあ、厳密に言うと、これはアイソパシー(またはトートパシー)なのであるが、
高希釈(Homeopathic dose)の効果という意味では、どちらでもよい。

860匹が、ホメオパシー的に10-30倍まで希釈された溶剤(test solution)に、
860匹が、タダの水(control solution)に、それぞれ一定間隔で晒された。
タダの水の方も、何も溶かさずに希釈&振盪され、どちらもレメディを作る時と同じ方法で用意された訳である。

そして、ホメオパシー的溶剤に晒されたおたまじゃくしは、
タダの水に晒されたグループより成長が遅かったのである!!

この研究の面白い所は、
上に書いたように、一旦、病因(?)となる物質に対象(カエル)を晒して、それと同じ物質をホメオパシー的に希釈して(つまりレメディ化して)使ったことであるが、

更に、

レメディ化した溶液を、①旧式の電子レンジ、②携帯電話の電波、③空港で使用されているX線、④バーコード・リーダーの光(スーパー等で使われている赤い光を出すもの)に晒して、その効果も併行して実験した(1160匹が使われた)。

結果は、①と②の対象群では、効果が見られなかった(おたまじゃくしの成長が遅くならなかった)が、③と④は効果があった。
また、アルミホイルを使うと、①と②の影響を微小ながら防ぐことが分かった。

それから、アルコール溶液を使っても、水溶液を使っても、効果に違いは無かった。

これらの研究結果が、そのまま直に、人間へのレメディの治癒効果に結びつくものではないかもしれない。

しかし、結果は、アボガドロ定数以上の高希釈液が生体に働きかける効果を持つこと、
そして、「似たものが似たものを癒す」というホメオパシーの大・大・大前提をも検証することになったのである。

まあ、こういう研究を知っても、Quackbustersは、なんやかんや、難癖をつけて否定したがるのでしょうけどね(笑)

前に紹介した、Roy教授の水の構造の話などとも併せて、
近い将来、水は記憶しないとか情報を持たないとか言う人の方が失笑を買う日が来るような気がしますな。

以上、全文を載せると、著作権の問題があるので短い要約のみ。

出典は以下から。

The effect of homeopathically prepared thyroxine on highland frogs: influence of electromagnetic fields

S Weber, PC Endler (1), SU Welles (1), E Suanjak-Traidl (1), W Scherer-Pongratz (1), M Frass (1), H Spranger (1),
G Peithner (2) and H Lothaller (3)

(1) Interuniversity College Graz/Castle of Seggau, Austria
(2) Peithner Inc., Vienna, Austria
(3) University of Graz, Austria

入手は、http://www.sciencedirect.com で出来るはずです。

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"Homeophobia"という病

イギリスでは、ある伝染病が流行っている。
その名は、「Homeophobia(ホメ恐怖症)」

もちろん誰かの造語である。
が、そう言いたくなる程、イギリスでの近年のホメオパシーに対するバッシングは凄い。

いつの世でも、どの国でも、同じ様な輩はいるらしく、
イギリスでも、補完代替医療(CAM)を目の敵にして、メディア・キャンペーンを展開する人がいる。
「quackbuster」と呼ばれているらしい。
適切な訳語が見当たらないが、「自称・科学の擁護者で補完代替医療を攻撃する人」を指す。
これは恐らく、特定の利害関係のある“業界”の手先も含まれるとも読み取れるかな。。

イギリスの新聞「ガーディアン(The Guardian)」によく投稿する人物、Ben Goldacre氏などが有名だとか。

そのGoldacre氏、昨年11月6日、やはりガーディアンにホメオパシーを攻撃する記事を投稿した。

実はその記事が掲載されたのを見た時は、投稿者の名前なんて覚えてなかったのだが、その後、同氏のようなquackbusterたちの言動を暴露するエッセイが出て、
「はー、このヒト、悪名高かったのねー」と分かった。。

Quackbustes(ゴースト・バスターズじゃないよ)が、どういう手口を使っているのか?
いかに彼らが“非”科学的か?(ちなみにGoldacre氏は医師)

を指摘している、Martin Walker氏のエッセイは、以下のページからどうぞ。
無料のPDFをダウンロード出来ます。(英語です)
http://www.slingshotpublications.com/dwarfs.html

ジャック・ベンベニストに捧ぐ・・・とある。
そう、あの「水の記憶事件」のベンベニスト。Quackbustersの犠牲者。
ジャックの研究が少しは報われることを祈ろう。。

でもって、Goldacre氏の記事に対して、「ええかげんにせいっ!」って感じで、
材料(物質)科学の専門家であるRustum Roy氏から批判の記事が、同じくガーディアンに掲載された(12月19日)。

彼は科学者らしく(?)、ホメオパシーの治癒効果に対して、肯定、否定、どちらの立場も取ったことがないとも言った上で、

「物質を溶かした水をアボガドロ数以上に希釈したものは、溶かす前の水と違わない」という従来の、恐らく100年以上に渡ってホメオパシー攻撃の切り札として使われてきた主張は間違いであると指摘している。

研究をしていたら、「homeophobia」っていう病気が流行っていることを発見したって(笑)

最先端の材料(物質)科学(material science)の研究において、水の構造は何通りにも変化し得るということが発見されている(polymorphism of water)。

Roy氏は、こうも付け加えている。
「Goldacre氏は、プラシーボ効果だと言うが、西洋医薬(orthodox medical pills)の方が、よっぽどその効果は高いんじゃないかね。巨額の宣伝費を掛けて広告してるんだから。」

Thanks, Prof. Roy!

そう、だからと言って、ホメオパシーの治癒効果が科学的に解明された訳ではない。
でもまあ、大きな前進でしょう。
ホメオパシーについて、科学者がここまでハッキリ言うっていうのは、あまりなかった事だよね。

このRoy先生の研究の他にも、いくつか水の構造または“記憶”に関する研究があるのだが、当然ながらぜーんぶ英語で、専門用語の訳語もままならない・・・
てな訳で、そういうのを紹介しようとしている私の記事も進まないのれす。。(涙)

医師の団体とかさ・・・組織があるんだから、医師だけがホメオパシーをとか、
意固地な主張をするヒマがあったら、こういう事をキチンと説明するとか、
ホメオパシーのためになる事をやってよー!
既得権争いしてる場合じゃないんだぞー!!(怒)

我々は、Goldacre氏が医師であることも忘れてはいけないぞ!

(毎度のことながら念のためお断り。純粋にホメオパシーや人の癒しに献身的な医師の方々は、私の批判の対象外です。)

でも、水の構造って・・・?と、言いたくなるけども、
Roy氏曰く、ダイヤモンドは地上で最も硬いもの。グラファイトって最も柔らかいものの一つ。
どう違うんだい?どっちも炭素。

確かに水の様なありふれたもの(・・・と言ったら水に失礼か)が、
記憶するとか、情報を持つとか、考えにくいけれども、
「じゃあ我々一人一人が持ってるこの記憶・情報ってどこに「保存」されてるのさ?」
って私は思う時がある。
複雑って言ったって、糖質、たんぱく質の類でしょ?あるいは電気的に?

もうちょっと、お陰さまで生きていられるありがたさと併せて、水に敬意を払わなければなりますまい。

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ホメオパシーを利用している人々

先日、The Oprah Winfrey ShowというTV番組で、
スーパーモデルのシンディ・クロフォードが、ホメオパシーを利用しているという話をしたそうである。

彼女は、“big fun of homeopathy”であり、彼女の子供とペットにレメディを使っているとのこと。
興味のある方は、以下のリンクからどうぞ。http://www2.oprah.com/tows/slide/200710/20071030/slide_20071030_350_105.jhtml

HPの方にも記載したのだが、ホメオパシーを利用しているセレブは多い。
そんな歴史?を記載した本が出版された。

The Homeopathic Revolution: Famous People and Cultural Heros Who Choose Homeopathy」Dana Ullman著 North Atlantic Books, 2007

この本に関するキャンペーン・サイトも開設された。
http://www.homeopathicrevolution.com/

これによれば、
以下の人たちは、ホメオパシーを自分で利用するか、サポートをしている(いた)。

科学者・医学者たち:
チャールズ・ダーウィン、サー・ウィリアム・オスラー(現代医学の父)、チャールズ・メニンガー・MD(メニンガー・クリニック創設者)、ブライアン・ジョセフソン・PhD(ノーベル賞受賞者・ケンブリッジ大学教授)、他

少なくとも11人のアメリカ大統領と2人の英国首相:
リンカーン、フーバー、クリントン、ディズレーリ、ブレア、他

数多くの聖職者やスピリチュアル・リーダーたち:
ここには、マザー・テレサや7人のローマ法王が含まれる

スポーツ選手たち:
デビッド・ベッカム、マルチナ・ナブラチロワ、ボリス・ベッカー、他

音楽家たち:
ベートーベン、シューマン、ショパン、サー・ユーディ・メニューイン、ティナ・ターナー、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、他

俳優・タレントたち:
キャサリン・ゼタ・ジョーンズ、パメラ・アンダーソン、ジェーン・シーモア、スザンヌ・ソマーズ、プリシラ&リサ・マリー・プレスリー、ジェニファー・アニストン、トビー・マグワイア、オーランド・ブルーム、他

その他、有名作家など多数!

詳しくは、同サイトまたは書籍を読んでみてください。

序文を書いたのが、英国女王陛下の主治医(ホメオパス)であるDr. Peter Fisherであるというのも面白い。

女王陛下のホメオパスって、ホントにいるんだよ(笑)
(私は1回ナマで見たことあるな。。)

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喝采

お久しぶりですー!
あつ~い日々が続いていますが、皆さんお元気でしょうか?

随分と投稿をサボってました。

まあ、ホリデーにも出かけましたが(笑)
結構それなりに色々あってバタバタしておりました。

さて、以前ご紹介した「毒舌ブログ」さん、
連載をおやめになりました。

いつも楽しみにしていたので、凄~く残念ですが、
熟慮された末のご決断でしょうから、
それについて多くを語るのは無粋というもの。

ただ、スタンディング・オベーションをもって、
お見送りしたいと思います。

P.S.
先日、飲みに行った時に、
初対面の人に、「ホメオパシーというのをやってます」と言ったら、
「えっ?ホメ殺し??」って返されました(笑)

意味分からない人は、
http://similar.blog60.fc2.com/ を見るべし!

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Polypharmacy

多種混合レメディ、あるいは多種同時投与は、いつの世でもホメオパスを魅了し、誘惑し続けて来たに違いない。
Organonにまつわる話し」でも述べたように、
ハーネマンの時代から、ポリファーマシーの萌芽はあった。
純粋な実験・体験の観察こそが、何よりも重要であると考えていたハーネマンは、当然ながらポリファーマシーを試してみた。
結果的に、成果が不確実であるということで棄却したが、ハーネマンの実験からも、効果が無いと言う訳ではなかった、ということは読み取れる。

では、ポリファーマシーの何が問題なのか?

これは、結構、ホメオパシーの根源的な哲学に関係していることである。
それは、治癒に対する理念、結局は人間存在に対するアプローチの違いから生じるものと思う。
ポリファーマシーが何らか作用するということは、クラシカルにも分かっている。

ここでは、「クラシカルはなぜ、ポリファーマシーを避けるのか?」
という観点からの考察になるだろうと思う(たぶん・・・)。

まず考えなければならないのは、
レメディの全体像=効果は、どのように検証されるのか?という事である。

レメディがどのようなパターン(全体像)の人を癒すかは、ご存知の通りプルーヴィングという作業によって確かめられる。
プルーヴィングによって記述されたパターンは臨床で確認された上、更に、臨床でどのような人を癒したかも追加される。
ここで、プルーヴィングに使われる物質は、1種類である。

パターンであると言うのは、結局、レメディ像として挙がっている全ての症状とピッタリ同じものを持っている患者さんというのは滅多にいないから、それぞれの症状が全体として織り成す傾向、すなわちパターンを全体像とする。
これが「十分に似ている」という意味だと考えてもらえば良いと思う。
(あまりピンと来ないかな・・・)

お問い合わせのあった、高すぎるポーテンシーの弊害は、高いポーテンシー=強いエネルギーであり、病気のエネルギー(=症状)と似たようであるから、レメディのエネルギーに晒された時、そのエネルギーが強ければ強いほど、元の症状は悪くなったように感じる場合が多い。
(ハーネマンは、病気のエネルギーより僅かだけ強いエネルギー=ポーテンシーのレメディが、病気を取り除くと述べている)

ここで、患者の症状とレメディの症状が完全にイコールではない(やや似ているだけ、と仮にする)場合、その人の幾つかの症状が好転反応を起こし(または好転反応を体感せず単に改善し)、レメディの症状が部分的に現れる(プルーヴィング)ことがある。
これは一例であるが、ポーテンシーがあまりにも高いと、レメディがシミリマムであっても強い好転反応が出やすく、シミリマムでない場合、患者が元々持っていない症状が出る、あるいは別の反応(マヤズムが立ち上がったり)が出る可能性がある訳である。
複数のレメディをハイ・ポーテンシーで投与すると、こういったことが複合的に起こり得るため、予期せぬリスクを抱えることになる。

それが、患者さんに優しい方法なのか?
良く考えなければならない。

混合レメディのプルーヴィングというのは、少なくとも出版されたものを、私は見たことがない。
同様に、マテリア・メディカも、混合レメディについて記述があるものを見たことがない。
単に私が知らないだけという可能性があるが、少なくとも有名なマテリア・メディカにそのようなものはない。

プラクティカルの人は相当多いと思われる、ということを考えると、これはある意味異常な状態ではないか?
プラクティカルの人は、当然の様に、混合レメディを使う。
しかし、混合レメディの症状像・パターンは、出版ベースでは殆ど明らかにされていない。
どれとどれのレメディを混ぜると、○○の症状像になるという事は、殆どの組み合わせ(混合)について、まだ分かっていないかもしれないのである。

例えば、プラクティカルの大御所であるRobin Murphyのマテリア・メディカには、混合レメディの記述はない。
実は、前の記事で参照した彼の方法論についての本にも、混合レメディについての記載がない。
Murphyって、プラクティカルなの?というヘンな疑問も出てきた(笑)

Anyway、1つの物質からなるレメディは、それぞれ独特のパターン=全体像を持つ。
全体像が良く知られていないレメディも多いが、それは単にまだ知られていないだけである。
というのが、レメディ像に対する普遍的な考え方である。

混合レメディに何らか効果があることは分かる。
だが、組み合わせによってどういう作用が生じるかについて、恐らく誰も整理していないというよりは、整理出来ないのであろう。
これがハーネマンの言う不確実さだろうと思う。

上記のような不透明さから、混合レメディについての批判でよく耳にするのは、
「Intellectual Laziness(知的怠惰)」
というものである。

この言葉には、2通りの批判が込められていると思う。
1つは、上で述べたような、混合レメディの全体像が記述されていないこと。
もう1つは、クライアントの全体像を深く探求することをせずに、
似たような症状を持つレメディを複数組み合わせて投与して、どれかが当たるだろうという、安易な方法論への批判である。

適切なレメディが見つかるまで、クライアントを待たせるのは酷だという意見もある。
それは一理あると思うが、混合することによるリスクが評価されていない。
作用の仕方が明らかになっていないのであるから、リスクもおのずと未知数である。

レメディの作用は、微細なエネルギーの共鳴現象であると考えられているが、異なる複数のエネルギーの波が、クライアントの生命エネルギー(氣)の波に出会った時、どういう反応をするかは分からない。
永松昌泰氏が述べるように、レメディは成分が成分へ、つまり物質が物質に働き掛けるというものではないため、
複数のレメディを混合した時に、その効果が必ず「1+1=2」という訳ではなくて、
0. 5になったり、場合によっては1.2になったりするかもしれない。
(「ホメオパシー入門」永松昌泰著)
我々は今までの所、否定派も当然のごとく主張するように、レメディの作用機序を明確に知り得ないのである。

であるなら、臨床での経験によるしかない訳であるが、
一体、何通りの組み合わせが出てくるのか?
極端な事を言うと、行うホメオパスの数だけ存在する。

そして、前の記事でも少し述べた様に、ケースのマネジメントが難しくなる。
例えば、アトピーのクライアントに、

マヤズム=Psorinum
過去に受けたインフルエンザ予防接種=Influenzinum
アトピー=Calc、Merc、Sil、Sulph、Graphのコンビネーション

という投与を行ったとする。
(レメディは当てずっぽうですので、念のため)

クライアントは、すっかり治った。ヨカッタ、ヨカッタ。
・・・いつもこうなって欲しいものだが、さて一体、どのレメディがこの人に効いたのだろうか?
または、この内の2つか3つの作用により効いたのか?
どれが無ければ、もっと速やかに治癒が起きたのか?
無論、治癒が起きたことは何よりも評価されるべきである。
しかし、この投与を、似たような全体像を持つように見える別の人に行って、同じ効果があるとは限らない。

人によっては、えらい毒出しに長期間悩まされるかもしれない・・・
その毒出しが、好転反応なのか?
これらのレメディの内、どれかが好転反応を引き起こし、どれかが毒出しを引き起こしているのか?
複合効果で好転反応なのか?毒出しなのか?
どの症状が、どのレメディによって引き起こされたのか?
どれが治癒的に作用して、どれがそれを妨げたり、補助したりしているのか?
たった1つだけが作用していて、他のものは何もしていないのか?

更に、上記の投与によって何も起きないかもしれないが、実はこれらの内のどれかがシミリマムであったのに、他のレメディによって効果を相殺された可能性だってあるのだ。
この場合、シミリマムが棄却される可能性もある訳である。

・・・これらを、どのように評価するのだろうか?
次回のコンサルティーションで、
投与を変えるべきか?
変えるとしたら、どのレメディを変えるのか?増やすのか?減らすのか?
好転反応と判断して、引き続き投与を続けるのか?

これらの事が整然と理解されているのであれば、凄いことだ!

現代医学の医師による金言集「ドクターズルール425―医師の心得集」クリフトン・ミーダー著 福井次矢訳でも、
「投与する薬の量は最小限にせよ」
「可能なら全ての薬を中止せよ。それが不可能なら、できるだけ多くの薬を中止せよ」
と述べられている。

現代医学でも、複数、しかも多数の薬を同時投与した場合の臨床試験というのは殆ど行われていないだろうと思う。
(もっとも臨床試験が行われていても、結果にバイアスが掛かっている実験も多いらしいから、必ずしも信頼出来ないし、長期の服用については特に、薬以外の要素も複雑に絡み合ってくるから評価は難しいであろう。)
比較的作用機序の分かりやすい現代医学の薬でさえ、複数の薬が体内に入ったら、長期的にどういう作用をするのかは、よく分からないはずなのである。

ポリファーマシーで使われるレメディが増えれば増えるほど、何が起きるか分からないし、起きた事の評価も難しくなる。
不確実なだけでなく、余計な忍耐(毒出し)をクライアントに強いる可能性もある。

Ian Watson(プラクティカル・ホメオパス)は、以下のように述べている。

私が確かめた限りでは、型にはまった処方をすると、それらのコンビネーションはかなり高い確率で緩和的に作用するか、あるいはまったく作用せず、治癒効果はより少ないようである。
このような理由から、私は単独のレメディを処方するか、可能な場合は常に個別化した根拠に基づいて複合的な処方をするのを好む

(「A Guide to the Methodologies of Homoeopathy(邦題:ホメオパシー方法論へのガイド)」より)

もちろん彼はプラクティカルであるから、
「あらかじめ、どの患者に多種投与がよりよいか分かっていれば、何のためらいもなく与える」と言ってはいる。
しかし、とにかくポリファーマシーというのではなく、その利用について慎重な姿勢を取っていることが分かるだろう。

Watsonの言う緩和的(Palliative)というのは、抑圧的(Suppressive)という表現よりもポジティブな表現ではあるものの、「一時しのぎ」という一種の抑圧であって、根本的な治癒(Curative)とは違う。
従って、マニュアル的に投与すると、治癒的には作用しない場合が多いと言っているのである。

レメディが抑圧的に作用しても、化学薬品による様な薬害は無いので、短期的にはさほど問題にならない場合が多いと思う。
レメディが自然治癒力(ヴァイタル・フォースや氣)に働きかける期間は短い。
しかし、ごっそりたくさんのレメディを使って、出てきた反応に対して、またたくさんレメディを使うという事が長期的に繰り返されるのだとしたら、当初緩和的で済んだものが、抑圧的になって・・・おや、これは随分アロパシー的(対症療法)である。
場合によってはプルーヴィングも併発するだろう。
こういうのを対症療法、あるいは医原病とは言わないのだろうか?

私は現代医学の薬同様、レメディの濫用には危惧を覚える。
これはホメオパスのやる事に限らない。
セルフケアでも同様である。

ネット上でも、
「マヤズム・レメディもガンガン飲んじゃいます」とか、
「風邪ぐらいなら、レメディで治しちゃいます」
といった発言も多い。
風邪ぐらいなら、通常、何も使わずに治す様にした方が良いと思う。
マヤズム・レメディって、何だか分かってて飲んでるのかな?

「ヒドイ生理痛がレメディ飲んだら消えたから、毎月痛くなると飲んでます」
それを、緩和的または抑圧的と言う。
ある程度痛いのは仕方ないかもしれないが、寝込むほどヒドイのはちょっと問題だ。
どうにかしたい・・・そりゃそうだ。
しかし毎月その酷さが襲ってくるというのは、そのレメディでは根本的な解決になっていないのである。
人によっては、それを続けている内に、新しい別の症状が出てきてしまったりする。

おっと、また脱線・・・(セルフケアの話しは、いつか別の機会に)

「数打ちゃ当たる」的な投与は、日本へのホメオパシー導入当初、
とにかく、何らか改善するようにレメディをヒットさせないと、クライアントさんが戻ってこないという葛藤もあったと言われる。
「ホメオパシー?なんじゃそりゃ?」と、いまだに言われることの多い日本であるから、当時の危惧は分かるような気もする。
本も幾らか出版されたりして、随分と利用する人の認識も変わってきた最近でさえ、やはり1回、2回で効果がないと、別の療法に走る人は多いであろう。

しかし最初から間違って流布してしまった可能性があり、今更後戻りも出来ないのかもしれないかも・・・と思える部分もある。
それをあるべき姿に戻そうと、どちらかというとクラシカルが忍耐を被っている部分だってあるんですぞ!(笑)

この辺、ホメオパシーによるプロセスや癒しがどのようなものか、どうか今一度、クライアントの方々にも、認識していただきたいのであるが(お願いしまーす)、
少なくとも、「数打ちゃ当たる戦術」は、やめて欲しい。
確かに、学校卒業したばかりのホメオパスでも、それなりにやって行けるシステムなのかもしれないけど・・・今はもう随分支持者もいるのだから、そうする必要もありますまい?(そうでない慎重な人たちもいることは、私も知っています!)
さもなければ、やはり「知的怠惰」なのだと思う。

ポリファーマシーによって、運良く順調に治癒がもたらされれば、クライアントはハッピーであるが、ホメオパスにとっては、万事OKという訳でもない。
「どれが効いたか分からないため、ホメオパスの学びの機会が失われる」というのは、ホメオパス側のエゴである、という人もいるが、本当にそうだろうか?

クライアントのサポートを、責任を持って行うためには、少しでも不確実性・不明瞭な部分を排除すべきではないだろうか?
レメディの反応、クライアントの状態を、可能な限り的確に把握する、つまり学びを得て、以降に生かして行く、それが最終的にはクライアントに対する責任を果たすことになるだろう。

慎重に慎重を期しても、人間の行為には不確実性が残るものである。
現代医学でも(科学でもいいが)人間についてまだ良く分かっていない部分が多いのである。
ホメオパシー哲学の根底には、人間という存在を理解するのは深遠で困難な事という、ある種の畏怖に似た、生命に対する尊敬がある。
そこに出来るだけ人間の手を加えないこと、それがホリスティック・ヒーリングの姿勢の1つでもあり、クラシカル・ホメオパシーの目指す所でもある。
それゆえ、「ホメオパシーは安全である」という言明も出てくる訳であるし、ナチュラル・ヒーリングで、心身に優しいということになるのである。

少なくとも現状、ポリファーマシーは利益も損失も、シングルレメディに対して不確実・不明瞭である。
その事が、効果が無いという結論には結びつかない。
場合によっては、驚くような効果があるだろう。
ある意味、この面でホメオパシーは、まだまだ研究の余地があり、発展途上であると言える。
クラシカルの方法論もまた同様である。
しかし、分かりにくい事を、更に複雑にしてリスクを増やす理由は、クラシカル・ホメオパスには見つからない。

いや、トラコパシーでは、こういったノウハウが蓄積され、シェアされていると信じたい。
願わくば、日本のプラクティカル・ホメオパスにも、「効果があります、素晴らしいです」&「毒出しです」という以外の説明が欲しい。
効果があるという事は、多くの人が納得しているのだから。

ついでに言っておくと、不確実な大量投与で、レメディ代が別料金というのは、不明瞭な(余分な)対価が掛かっている可能性があることを指摘しておく。
自らの団体の相談料が適切であると主張する前に、省みて欲しい部分である。

必要なのは、コミュニケーションである。
出来れば、個々のホメオパスが「自分の言葉」で語ってもらいたい。(どうも版で押したように、同じ様な説明しか聞かない。宗教っぽいと言われる要素はあるだろう)
特別に科学的である必要もないのだ(笑)
何が分かっていて、何が分かっていないのか?
結局、ホメオパシーとは、Phenomenon=現象、つまり「何が起こっているか?」を見つめることなのである。
それを、ホメオパスとクライアントが共に見つめて行くのが、コンサルテーションの姿でもあり、ホメオパシーが健全に発展するためには不可欠な姿勢だと思う。

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Practical Homeopathy in Japan

プラクティカルという体系の中には、更にいくつか流派がありそうだという事は、前の記事で記載した。
結局の所、クラシカルとの最大の違いは、混合レメディ、複数投与のポリファーマシーであるというのが私の見解である。

それ以外の方法論とか手法というのは、クラシカルでも使われているものも多いのだが、困った事に、誰がどういう方法論で取り組んでいるのかについて、クラシカルほど出版物がなく(少なくとも英語圏では)、プラクティカルの方法論を詳しく知るためには、学校に行かなければならないようだ。
クラシカルがダメダメで、プラクティカルの方が有効であるというのであれば、プラクティカルの本で溢れていても良さそうなものなのだが・・・

ポピュラーな本としては、辛うじて、
「A Guide to the Methodologies of Homoeopathy(邦題:ホメオパシー方法論へのガイド)」Ian Watson著 ぐらいであり、あとは、

  • 「Mastering Homeopathy」Jon Gamble著
  • 「Case Analysis and Prescribing Techniques」Robin Murphy著
  • 「Classical Homeopathy Revisited」Jean Cole and Roger Dyson著

あたりしか無いと思う。
(あら、前の記事のタイトルと一緒だ。でもニュアンス違うから・・・(笑))

Eizayagaのレイヤー・メソッドとは?

Organonにまつわる話し」で述べたように、残念ながら、由井寅子氏がプラクティカルの開祖と言っているFancisco Eizayaga=アイシー・アガー(やっぱりカタカナ名ヘンだよね)は、クラシカルである。
著書「Treatise on Homoeopathic Medicine」を読んでも、彼の方法論上は、ポリファーマシーを支持するような記載はない。
但し、臨床現場で、ポリファーマシーや、主要レメディとそれを補完するもの(Substanceと書いてある)が必要になる場合が多いと述べているので、ポリファーマシーの効果を否定してはいない。

もしかしたら、こういう部分が拡大解釈されているかもしれない。
あるいは、彼の実際のプラクティスは、プラクティカルに近いものであったのであろう。
(しかし、彼の方法論がポリファーマシーを前提にしている様には、本からは読み取れない)
いずれにせよ、彼の方法論は多くのクラシカルにも支持されているので、どちらの流派のものというより、ホメオパシー界では定番的な方法論の1つと言えるだろう。

彼は「レイヤー・メソッド」で有名である。
この方法論では、
人間は根本体質を持って生まれ(Genotype)、マヤズム(Miasm)が蓄積されている。
成長するにつれ、特定の個性と共に、機能的問題を抱えるようになる(Phenotype)、そしてどこかでバランスが崩れると、器質性疾患(問題)を持つ(Local lesion)という前提がある。
それぞれの「層」に1つずつレメディが必要であるが、時折、マヤズムを除く全てが1つのレメディで解決出来るというものである。

このプロセスをもう少し見てみよう。
局所的な病理が認められる場合には、その「部分(localized process or localized lesion)」つまり疾患を先に治癒する。これを1つの層(レイヤー)とみなす訳である。
この際、低いポーテンシー(マザー・ティンクチャーからアボガドロ数より低いポーテンシーまで)を使うが、レメディ(”local” remedy)を選ぶ際は、局所的とは言っても、病名ではなくて、あらゆる症状、モダリティ、付随症状などを考慮してレメディを選ぶ。精神的な特徴は、レメディ選択のために非常に重要である。
要は、この層の全体像に合わせたレメディを選べという事である。
(ポーテンシーについて彼は、こういった場合には、エネルギー(Dynamicな作用)だけでなく、化学的な作用も必要であると説明している)

局所的な疾患層の治療が済んだら、「患者のレメディ」つまり、いわゆるシミリマムにより治療を続ける。
この場合は、高いポーテンシー(アボガドロ数以上)、すなわち「Dynamic」なものとなるだろう。
シミリマムによる治療は、マヤズム治療と併せて行う必要がある。

予防は、治療が治療が済んでから、根本体質レメディによってなされる。
ここでは、シミリマム(SimillimumまたはFundamental remedy)と根本体質レメディ(Constitutional remedy)とは、異なる概念となっている。
Eizayagaによれば、根本体質レメディとは、何も治療せず、ただ病気を予防するものとされている。

シミリマムが、疾患と個人(の全体像)の両方をカバーするとき、シミリマムのみで治療をするという理想的なものとなる(但し、各層によりポーテンシーは異なるだろう)。
または、局所的なプロセスが無い場合、シミリマムのみで治療が出来る。

ナカナカ説得力がある、システマティックな方法論だ。
多くの人に支持されるのが分かるような気がしますね(笑)
これは、Eizayagaの豊富な臨床経験から得られた仮説である。
しかし、やはり全てのケースに対応出来るわけではない。
ある人の状態を観て、上記の様に、キレイに分層化出来る訳ではない(この点は、ハーネマニアンからも指摘されている)。

システマティックであるがゆえに、軽率に利用される可能性もある。
型にはまったやり方を好む人は、何でもかんでも分層化したがるかもしれないが、そこまで簡単なものだろうか?
1つ言えるのは、「疾患層」という概念があるため、コンプレクシストやクリニカルといった流派の人(つまりはプラクティカル)が取り組みやすいだろうという点である。
Eizayagaがプラクティカルの開祖であるという誤解は、この辺りから来ている様な気もする。

予防について、Eizayagaが面白い事を言っているのを忘れてはいけない。
予防は、根本体質レメディによってなされるとする。
根本体質レメディの概念がシミリマムと違うのは、彼独特のアイデアであろうが、一般的な概念として根本体質=シミリマムであるので、
これをまあ、シミリマム≧根本体質と仮定しても、「ベストな予防策は、シミリマムを見つけること(=自然治癒力を強化・維持すること)」であるという、クラシカルの基本的な考え方に一致すると思う。
(これはEizayagaに関する私の解釈である。念のため)


Practical Homeopathy Revisited?

ここからは、プラクティカルとして最も名高い1人である、Ian Watsonの著書による情報をメインに、日本独自のプラクティカル(トラコパシー)とクラシカルの違いについて考えていく。

我々に見えている特長とは何だろうか?
まず、キーワードと思われるものを挙げてみよう。

マヤズム治療
毒出し
好転反応
医原病(予防接種と対症療法否定)
コンビネーション・レメディまたは複数同時投与
ハイ・ポーテンシー
機械の使用

こんなところであろうか?
では、順番に考えていこう。
クドく断っておくけれど、ケチつけるように見えるかもしれないが、あくまで考える機会を持とうという主旨である。
また、批判者=最大の理解者ともなり得ることを念頭に置いてね~(今のところ同意者とは違うが)。


Miasmatic Prescribing, Isopathy & Tautopathy

マヤズムはちょっと説明するのがやっかいだ。
私はマヤズム論者ではないので、マヤズムには疎い・・・なんて言うと、バカにされそうだが、世の中には、マヤズムを重視する人と、マヤズム治療という事をあまり考えない人がいるという事を知って欲しい。

マヤズムは、ご存知の通り、ハーネマンのアイデアから始まった。
これもまた彼の経験から、「こういう事じゃないと、この現象を説明出来ない」ということで、帰納的に導出された仮説である。

ホメオパシーの本でマヤズムについて読むと、「ゲゲッ、あやしい」と思う人もいるかもしれない。
確かに、「汚染」とか「染み」という意味(ギリシア語に由来する)にかこつけて神話的な説明をする人もいる(原罪とか)。
メタファーとしては良いと思うが、懐疑派は眉をひそめたくなるであろう。

まあ、あまりそれらに突っかからずに、要するに、遺伝的(民族的とか広い意味も含めて)、あるいは後天的に獲得されうる、疾病への罹りやすさの傾向・パターンであると考えれば良いだろうと思う。
現代医学的に、遺伝的要素と言っても差し支えない。表現と分類の仕方が違うだけである。

ハーネマンの当時、3つのマヤズムが想定された。
Psora(乾癬または疥癬)、Sycosis(淋病)、Syphilis(梅毒)である。
現在は、上記3つに、Tubercular(Tuberculosis、結核)、Cancer(癌)を加えることが多い。
(人によってはAIDS等も考慮する)

サンカラン(Rajan Sankaran)は、これらに更に加えて合計10のマヤズムを想定しているが、
彼の言うマヤズムとは、レメディを分類するパターンとしての要素なので、ハーネマン由来のマヤズムの概念とは大きく異なる。
従って、サンカラン・システムにおいて、マヤズム治療という概念は無いと言ってよい。
マンジアラボーリ(Massimo Mangialavori)は、サンカランとアプローチは異なるが、やはりマヤズムは全くと言っていいほど考慮しない。
彼らは、マヤズム的パターンがあるとすれば、それはレメディの全体像として取り込まれるべきと考えているのであろう。
(面白いことに、インドのホメオパスは、サンカランとは違って、マヤズム治療に積極的な人が多いそうだ)

マヤズム治療を考える人は、2通りの手法を採る。
1つは、抗マヤズム・レメディ(Anti-miasmatic remdy)と考えられるレメディを使う方法。
もう1つは、該当するマヤズムのノソード(Nosode)を使う方法。
(ホメジャでは、Nosodeをなぜか「ノゾード」とカタカナ表記しているようだが、これはギリシア語読みを採ったのか?何だか不明(ギリシア語の「Nosos=disease」が語源)。レメディ名とか、ホメジャのカタカナ表記には統一感が無い。
どっちでも構わないけど・・・せっかくなら、英語読みっぽく統一したらいいのでは?)

いずれも、詳しく説明する余裕はないのだが、抗マヤズム・レメディを使用するのは、シミリマムを使うのと概ね同義であると考えて構わないだろう。
人によって微妙に異なるだろうが、ここではクラシカルの原則として述べる。
なぜなら、クラシカルのどの流派であろうとも(レイヤーは別として)、シミリマムを選ぶ際の症状の全体像には、マヤズムも含まれるからである。

ハーネマニアンとして名高いLuc De Schepperは、次のように述べている。
「注意深いシミリマムの処方(Constitutional prescribing)を、適切なノソードを与える前に行うことがMUST!である」
(「Achieving and Maintaining the Simillimum」Luc De Schepper著 より)

これは、最初に考えるレメディが抗マヤズム的であることも示唆すると共に、ノソードの使い方に注意を促している。
ノソードの使い方の話題になると、マヤズムだけの話ではなくなるのだが、これは切り離せない部分でもあるので、ノソードの使い方についても併せて述べる。

De Schepperは、潜伏中のマヤズム(Latent miasm)をアクティブにするのは、患者を苦しめる結果となり、好ましくないと述べている。
Watsonも同じ様な事を述べているゾ。
De Schepperはまた、ノソードを不適切に与えると、潜伏中のマヤズムがアクティブになると言う。
そして両者共に、「寝ているマヤズムは、起こすな」と言っているのである。

これはノソードの使い方にも当てはまる。
過去にペニシリン注射を受けた事があるという理由だけで、症状像を考慮せずに、機械的にペニシリンのレメディを投与する様な行為は、真のクラシカル・ホメオパシーではないと、De Schepperは述べる(これはノソードではなく、トートパシーであるが概念的には似ている)。
(「アロパシーを行いながらホメオパシーの話をしている(”Talking homeopathy” whlie “walking allopathy”)」と、彼はPseudo-homeopathには手厳しい)

ノソードは基本的に、介入(Intercurrent)として使われ、次の様な時に使われる。

  1. 最適と考えられるレメディが効かない時、または症状が継続的に変化する時
  2. マヤズムにより、シミリマムの働きが阻害された時
  3. ある特定の病気以来、具合が悪い(NWS = Never well since)
  4. 症状が不明瞭、あるいは際立った症状が無い
  5. 複数のレメディ像が現れ、1つのレメディ像にマッチしない

以上の様な場合、適切なノソードの使用により、シミリマムの働きが活性化されたり、シミリマムの像が明確になったりする。

また、上記以外で、急性でも慢性症状でも、ノソードのレメディ像と患者の症状像が合う時は、ノソードをシミリマムとして使える。
これがアイソパシーではなく、ホメオパシーであるという事は、前の記事で述べた。

1と2は、マヤズム治療である。
3と4は、アイソパシーやトートパシーによることもあるが、マヤズム治療的である。この場合、NWSは一種の後天的マヤズムとも解される。

5の場合、プラクティカルなら、ここでコンビネーションを使うというオプションを行使出来る。
しかし、これがノソードを使う必要のある機会であるとするなら、コンビネーションを使うのは適切でないとも言えるだろう。

ここまで整理して明らかなのは、
クラシカルもプラクティカルも(少なくともWatsonによれば)、
通常、マヤズム治療というのは、特にノソードによる場合は、介入的に行われるものであり、シミリマムが常に優先されるということ。
そして、アクティブでないマヤズムは起こすな、ということであった。

ノソードが使われる場合というのは、殆ど同じ様にアイソパシーやトートパシーにも適用出来る。
これらを総括すれば、マヤズム治療、アイソパシー、トートパシーは、
「他の方法で効果が無い時に、補助的に試してみるもの」と言う事が出来るだろう。
これはプラクティカルであるWatsonの言葉である。

引き続き彼の言葉を借りよう。

私の出発点は、どの患者においても、彼らがどのような薬をとっていようとも、また、どのような予防接種を受けていようとも、常にレメディが明確であれば、それを与えるという事である。
(中略)
その人がこれまでに薬物療法でとって来た全てのものを「アンチドート(Antidote)」する必要はない。その殆どが、飲むのを止めれば、長期に影響はしていないであろう。
私の同僚であり友人のRobert Davidsonは、このことに関して、常に覚えておく価値のある黄金律を教えてくれた。それは、「壊れていないなら、直すな!」である。

(Davidsonは、由井寅子氏の師にあたる人だそうである)

Robin Murphyも、ゴースト・イーチオロジー(Ghost etiology)という言葉を使って、De Schepperの上記ペニシリンの例えと同様の注意を促している。

さて、少なくともここまで、クラシカルもオーセンティックなプラクティカル?も、マヤズムとアイソパシー(トートパシー)の概念に根本的な相違はないという事が確認出来たのではないだろうか?

では、日本独自のプラクティカルというトラコパシーはどうなのだろう?
この話題は、「毒出しと好転反応」と一緒に考えなければならない。
それは次回です。

【参考文献】

  • 「Hahnemann Revisited」Luc De Schepper著
  • 「THE METHOD - Lectures on Pure Classical Homeopathy」Andre Saine著

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Classical Homeopathy Revisited

クラシカルは、ある人の心身の兆候・症状・状態の集合やパターンを、1つの全体像として捉えて、その全体像にマッチするレメディを使用する。
コンセプトは「Cure person as a whole(全体=丸ごととしての人を癒す)」である。
あ・・・これはホリスティック・ヒーリングとしての、ホメオパシーの姿勢である。

病気の名前が問題なのではない。
「その人に何が起こっているか?」を見つめる。

頭痛を例にしてみよう。
「痛い」と一口に言っても、その感じ方は人によって様々である。
「バンドで締め付けられるように痛い」
「何かが突き刺さったような感じ」
「頭が破裂しそうな痛み」
とか。
「頭のテッペンが開いちゃったみたい」とか「何かが頭の中で動いているみたい」なんて言う人もいる。
「とにかくっ、すっごい痛いのよ!突然やって来て、何が何だか分からないのっ!」
こういうのも痛みの表現である。エネルギーがある、と我々は解釈する。
これらの感覚表現を、センセーション(Sensation)という。
あなたのセンセーションは?と聞かれて、ピンと来る日本人は稀である。

症状には、得てして好転と悪化のパターンがある。
「朝起きると痛い」
「雨が降ると痛い」
「アイツの顔を見ると、いつも痛くなる」
「日に当たると痛くなる」
「ご飯を食べると良くなる」
「痛いところを押すと良くなる」
などなど。

頭痛以外にも、色々あるに違いない。
それ以外全然無いと言っていても、聞いてみると案外出てくる。
「頭痛が起きる時は、大抵、胃の調子が悪い」
こういった頭痛に付随する症状に加え、別の問題を抱えている人も多い。
「皮膚のトラブルが多い」
「喘息っぽい咳が出る」
「花粉症」
など。

身体的な悩み以外にも、
「パニックに陥りやすく、時折気絶してしまう」
「知らない人に会うのが恐怖」
「狭い所にいられない(閉所恐怖症)」
といったこともあるかもしれない。

これらに加え、体質的な悩み(冷え性や、扁桃腺が腫れやすいなど)、女性なら生理や更年期の悩み、家系的(遺伝的な)特徴、過去に患った病気・怪我・精神的な悩みなどを聞いて行く。

さらに、
性格的な特徴、家族・対人関係、仕事、趣味、食べ物の嗜好、睡眠、夢、全般に影響を受けるもの(季節・温度・天気等)などについても聞いて行く。

それぞれについて、「何が起こっているか?」を詳しく表現してもらう。
「花粉症があります」で終わりではない(大抵はね)。
それは、現象を示す名前であるが、現象そのものではない。

その人は、頭痛を治したくて来た。
しかし、ホメオパスは頭痛に対して何かをするのではない。
(それは現代医学の仕事であると、私は認識している)
本人にとって頭痛が一番の悩みであるという感覚は非常に重要であるが、それは、玄関の扉のようなものである。
その扉の外から眺めるだけでは、建物の詳細がどうなっているのかは分からない。
ゆえに、中にお邪魔して、家主に案内してもらう(症状を表現してもらう)のである。

クラシカル・ホメオパシーでは(とここでは言っておく)、これらを聞いてどうするのか?

症状の全体像というのは、パターンである。
その人の心と身体に共通して現れる、あるいは、心と身体に影響している(乱れた)エネルギーのパターン、そういったものを見い出したい。
それにマッチするパターンを持ったレメディを選ぶ。
東洋医学的に言えば、「乱れた氣を、レメディによって整える」のである。
エネルギーの乱れが整えられることで、自然治癒力が賦活され、結果としてそれぞれの「部分」が癒される(=全体が癒される)。

マッチするというのを「似ているレメディを選ぶ」と表現するのが、「同種療法」の由来だが、「そのパターンを解決するレメディを選ぶ」と表現しても差し支えないと思う。
ホメオパシーという名前を今更変える訳にはいかないけれど、「類似の法則」も仮説に過ぎないのである(「似たもの」でオカシイとは思わないけれど)。

「うぅ~ん、アヤシイ」と、そう思う人もいるだろう。
実に非科学的、トンデモ的(笑)

ホメオパシーの理論・哲学は、最初からあった訳ではない。
それは創始者ハーネマンの実験から見い出された仮説である。
ハーネマンは多くの人に起こった現象を繰り返し観察し、そこから同一とみなしうる構造(類似の法則やポーテンタイズ)を記述した。

これを何と言うか?
帰納法的推論である・・・もしかしたら、仮説演繹法と言うのかもしれない。
(私は専門家ぢゃないので、パス)
ここから出てきたホメオパシーの基本原理は、
「類似の法則(似たものが似たものを癒す)」
「ヴァイタル・フォース」
「ポーテンタイズ(希釈震盪してレメディを作ること)」
などであるが、

ホメオパスたちは、これらを原理(構造)として利用し、臨床を通じて実証を続けてきた。
しかし、当てはまらない現象(治らない例)もあるから、反証は可能である。
反証は可能だが、理論(構造)全てが否定されたことにはならない。
反証と否定は、少し意味が違う。

ヴァイタル・フォースは、実は別の何かかもしれない(仮説だからね)。
ヴァイタル・フォースのように振舞っている、別の何かがあるのかもしれない。
あるいは、「ヴァイタル・フォース+何か」なのかもしれない
「類似の法則」は、似ているのではなくて、何か別の作用がそう見えているだけかもしれない。

シニフィアンとして表現されたヴァイタル・フォースという共通理解(シニフィエ)は、もっと中核となる何か(構造)によって示されるべき現象なのかもしれないが、その何か(シニフィエ)について我々はまだ認識していないか、共通理解が成立していないだけなのかもしれない。
もしかしたら、それが氣なのかもしれないし。

今のところ、ホメオパスの言うヴァイタル・フォース(シニフィアン)が、それが意味することの共通理解として確立された同一性を持つ構造(シニフィエ)であるとして、これが中医学者の間で確立されたシニフィエとしての「氣」と同じ構造を持つのかは、確固たる共通了解がない。
それゆえ、ヴァイタル・フォースと氣とは、厳密には同じものを意味すると解明された訳ではない。

それでも、ヴァイタル・フォースなどの基本原理(構造)をシニフィエとみなして、さしあたって不都合は生じていないし、現在のホリスティック・ヒーリングにおいて、氣とヴァイタル・フォースは、同じ存在として共通理解を得ることは可能だろう。

(なんか、アタマがパンクしてきた。すごく無駄な文章が多いような気がするが・・・)

ハーネマン以降約200年かけて、この仮説に基づいてホメオパシーが実践されて来た。
治った、治らなかった、それぞれの現象を積み上げて(帰納して)、理論としての共通理解を導き出す。
治らなかったという「反証」をもとに、様々な人が方法論を修正し、磨き上げ、データを蓄積して来た。
こういう「手続」を科学的と言うのではなかったか?

世界各地で200年に渡って研究されているにもかかわらず、いまだ全てが解明された訳ではないが、それでもホメオパス側からすれば、これらの共通理解を否定する理由が見つかっていないのである。
少なからず治る人がいるから、だ!
(科学・現代医学側は、言いたいことはたくさんあるだろうね(笑))

やっぱり脱線してきた。
クラシカルの話に戻ると、1つの全体としての個人を治そうとしているんだったね。
それは1つのレメディによる。
ところが、実際には、レメディが複数になる場合が多い(同時という意味じゃないよ)。

私のツタナイ文章より分かりやすいと思うので、
HPでも参照した、「Imagine Homeopathy: A Book of Experiments, Images, And Metaphors」Chris Kurz著 のメタファーを借りることにしよう。

ゴルフの目的は、グリーンの中央にあるカップにボールを入れることである。
コースと技量によって、1ショットでカップに入れられるかもしれないし、5回ショットが必要かもしれない。
風もあるだろうし、池や林などの障害物もあるだろう。
どこに行っても、全く同じコース、同じ条件は存在しない。
プレイヤーは、常にカップがどこにあるかを念頭に入れて、安全かつ最短距離でボールを運ぶことに専念しなければならない。

ホメオパシーもこれと同じである。
常に最適なレメディ(シミリマム)に最短距離でしかも安全にたどり着くことを目指す。
ホール・イン・ワン(シミリマム)の時もあるだろうし、そうでない時もある。
長いクラブ(高いポーテンシー)を使うか、短いクラブ(低いポーテンシー)を使うかは、コース(クライアントの個性・状態)次第であるが、使うボールは一時に一つである。

常にホール・イン・ワンに(したいのに)ならない理由は色々あるが、
最大の原因は、コンサルテーションによって、クライアントの本質(エネルギー・パターン)が捉えきれないことである(しばしば起こる)。
ここでは、ホメオパスとクライアントの関係性が大きな要素となる。

クライアントはコトバを使って、自分に起きている現象を表現する。
良く言われるようにこの現象とは、クライアントの物語(ナラティブ)である。
ホメオパスは、その物語の本質的なパターン、本質的な現象を知りたい。
そこへ行き着くまで、クライアントは様々なコトバで自らの物語を紡ぐ。

様々な校正を経て物語の核心部、本質的な現象に近づけば近づくほど、それは語りえないもの、語ることが難しいものになって行くことが多い。
(サンカラン風に言えば、人間的部分を削ぎ落として、非人間的部分を表出させることになるのかもしれない。すなわちNon-human part of manとは「乱れたパターンそのもの」であり、物語を特徴付ける核心である)
しばしば、クライアントは自分の物語の本質に気付いていないか、または語る手段や表現を持たない、あるいは表現することに慣れていないものである。
クライアントが本質を語っているつもりでも、ホメオパスがそれを受け止められない場合もある。

コンサルテーションとは、クライアントとホメオパスとの間で、クライアントの本質的現象という「見えざる何か、語り得ぬ何か」(シニフィエ)について、コトバ(シニフィアン)によって共通理解を得るゲームであるという事が出来るかもしれない。
この過程で、クライアントが自らの物語の本質的な現象を見つめることが出来た時、ここで得られた認識を「気付き(Awareness)」と言うのであろう。

ここまで辿り着いて、本質的な現象・パターンに働きかけるレメディとのマッチングが可能になる。
レメディは、得られた気付きを後押しし、クライアント自らの力(自然治癒力)で、このパターンを解消させるのである。

表現が難しいが、気付ききっている?人の場合、レメディの助けは要らないだろうし、日常では、気付きのレベルが表層的である人の場合、レメディに辿りつくのも、レメディが作用するのも時間が掛かるだろう。
「気付きの後押しをする」というのは、「氣に働きかける」とでも「ヴァイタル・フォースに働きかける」とでも言ってもらって構わない。
現象の構造を説明しようと試みたメタファーですから(笑)
(構造主義や言語学の解釈が正しくないかも知れんけど、まあいいです、私の解釈だから)

うーん、無理な説明?
かえってアヤシクなった??(苦笑)

どうしてこんなヘンテコリンな説明をしたかというと、クラシカルは、ナラティブ(Narrative)を、その概念が定着する以前から取り入れ、エネルギー(ヴァイタル・フォースや氣)を見つめる、理想的なホリスティック・ヒーリングの1つであるということを強調したかったからだ。
(だからといって、全ての人や状態に適用出来ると言っている訳ではない)
加えて、エクスキューズにもなるが、それが結構チャレンジングな作業であるという事も知ってもらいたかった。

オマケとしては、クラシカル・ホメオパシーのメカニズム(システム)というものを知りたいと思う人には、その解釈の糸口になるのではないかと期待している。
(かえって分からなくなったかも知れないね・・・)

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ホメオパシーの分類

何回も、HPでも、ホメオパシーには大きく分けて2つの体系があります、と言って来たのにー(涙)
どうやら、日本で「ホメオパシー」と言うと、そのどちらにも属さない「日本独自のプラクティカル・ホメオパシー」を指すらしい・・・

ホメオパシーは、2つの体系、クラシカルとプラクティカルがある。
HPにも書いたが、これは結構曖昧な分類で、実際は、ユニシストとコンプレクシストという方が的確である。
もう1つ、クリニカル・ホメオパシーというのがある。
それぞれの概念を全部解明するのも実際困難であるから、さっさと分類だけしよう。

クラシカルとユニシストは同義である。これは問題ないだろう。
一時に一つのレメディを使い、その人全体を癒す1つのレメディ(シミリマム)を選ぶ。
ハーネマニアン、ケンティアンという古典的な方法論者に加え、現在、様々な方法論がある。
有名なところでは、ジョージ・ヴイソルカス(ヴィソルキアンと呼ばれることもある)、ラジャン・サンカラン(ボンベイ・スクールとか、サンカラン・システムと呼ばれる)、マッシモ・マンジアラボーリ、ジャン・ショルテンあたりが、独自の方法論で有名である。

良く言われているリピートについては、誤解がある。
クラシカルもリピートはするのである。使うレメディが1つだけということだ。
それから、一時に一つのレメディを使う期間は長かったり短かったりケース・バイ・ケース。レメディを頻繁に変える場合もあるのである。

プラクティカルとコンプレクシスト(Complexist)は、大体同じか?
私の見解は、「プラクティカル=コンプレクシスト+クリニカル」である。

コンプレクシストは、その名の通り、複数のレメディを同時使用したり、混合レメディを駆使する。
基本的に病名対応の傾向にあるとされ、1つの疾患をカバーする複数のレメディを同時に使用することが多い。
複数使用・混合レメディ使用の手法を、「ポリファーマシー」と呼ぶ(と、どっかに書いたな)。

クリニカルと言うと、何となく聞こえは良いが、病理と臓器親和性によりレメディを与える手法であり、基本的に低いポーテンシーを多用するため、ハーブ等を使ったPhytotherapy(植物療法)を拡張したものと捉えられている。
(ハーブ療法を批判する意図はないので、念のため)
レメディを治療手段の1つとして使う現代医療の医師などに多いとされる流派である。

クラシカルでも、クリニカルっぽくなる時もある。
ポーテンタイズしていないマザー・ティンクチャー(原液)を使うことがあるからだ。
この場合、大抵、植物のレメディであるから、植物療法っぽくなる。
他のレメディと同時使用することは、全く無いとは言わないが極めてまれであり、混合して使うことは恐らくあるまい。
フラワー・レメディやジェモ・セラピー(Gemmotherapy)を補助的に使う人もいる。

もう1つ、プルラリスト(Pluralist)という人たちがいるらしい。
患者の全体像を、複数のレメディでもってカバーしようという流派で、全体像を見つめようという観点は、クラシカルに近いもののようだ。

まだ他にもあるのかもしれないが、これ以上の分類は意味がないだろう。
結局、分類のポイントは、1つで全体をカバーするレメディか?複数同時使用(ポリファーマシー)か?である。
まあ、もしかしたらプラクティカルの人は、「EAV」や「クゥオンタムなんとか」という機械を使うとか、そういう面もあるのかな?
残念ながら、そこまで私は詳しくない・・・

厳密にはホメオパシーではないが、ホメオパシーに取り入れられているものがある。
但し、流派ではなくて手法。
アイソパシー(Isopathy)とトートパシー(Tautopathy)である。
「Iso」は、等しいという意味で、病気の原因となっているものや病気の組織などをレメディとして与える方法で、花粉症には花粉のレメディ、がん患者にはがん細胞のレメディ、結核には結核患者の痰のレメディというものである。
アイソパシーで、病気の組織や分泌物などを、本人から採集してレメディとして与える方法を、特にオートアイソパシー(Autoisopathy)とかオートパシー(Autopathy)と呼ぶ。

トートパシーの「Tauto」は同じという意味で、これはアイソパシーの内、患者が過去に摂取したり晒されたりした薬物や毒物をレメディとして与えるものである。
予防接種薬、ステロイドなどをレメディとする。

これらは、その名の通り、病気とレメディが「同じ」場合を言うので、例えば、がん細胞のレメディを、がん患者以外に使う場合は、ホメオパシーとなる。

さて、冒頭で嘆いたように、日本では「ホメオパシー=プラクティカル」という認識が強いようである。
このプラクティカルは、言わずと知れたホメオパシー・ジャパン系列のもので、日本独自のものだそうである。
宗主(何と表現したらイイの?社長?代表?)である由井寅子氏が、自分で宣言しておられるそうだし、それらしい事を私が持っている本にも書いておられるから、間違いないだろうと思う。

ホメオパシー=プラクティカルと全員が思っているのでないにせよ、
クラシカルとプラクティカルが、認識上混同されるようでは困るというか、ヘンなので、ここで分類しておきたい。
少なくともそれぞれが、正しく認識されていないのが現状であろう。

断っておかなければならないのは、
私はプラクティカル・ホメオパシーに精通している訳ではないから、欧米で言うプラクティカルと由井寅子氏のプラクティカル(「トラコパシー」と言うらしいね)の違いが、専門的にどこにあるのか分析・指摘する資格を持たない。
また、トラコパシーそのものの全貌についても、SNSやネットの掲示板、書籍、友人・知人の体験談等でしか知りえないので、多分に想像の域を出ない。
従ってここでは、クラシカルと日本独特のプラクティカル(トラコパシー)のやや大雑把な比較になる。
欧米のプラクティカルと日本独自のプラクティカルの比較は、私の仕事ではない。
(随分違うと、イギリスでプラクティカルを学んだ人は言っていたが)

これらの前提を踏まえた上で、
ポリファーマシーの有効性を否定するとか、トラコパシーの手法を否定するとか、そういう意図ではなくて、それらにクラシカルの立場から疑問を呈するものであるということを強調しておきたい。
人間には様々な可能性があり、まだまだ分かっていないことは多い。だから、日本独自のプラクティカルというものの存在も否定する気はない。
実際にそれで治癒した人、それに満足している人がいるのだから、そこに何かがあるのであろう。
私は「それが何か?」が知りたいだけであり、認識上、キチンと分類したいだけである。
(批判がましくなるのは避けられないとしても)

不幸な事に、バカの壁ならぬ、英語の壁がある。そこで一般レベルでの(場合によっては日本のホメオパシー学生でも)ホメオパシーのリテラシーは容易に偏向され得る。
否定派も含めて、ホメオパシーについてのリテラシーを高めていかないと、日本でホメオパシーは健全に定着しないどころか、せっかく芽が出てきたのに根絶やしになる可能性だってあるのだ。

前の記事でお気づきになった人もいると思うが、私の疑問はトラコパシーにのみ向けられているのではない。
統合医療の名の下に、ホメオパシーを、というよりレメディを都合よく利用しようとする人たちがいる(全員がそうだとは言っていないよ、もちろん)。
これはこれで、ホメオパシーがホリスティックでなくなる危険がある。
ホリスティックでなくても、それがどういうものか?という認識上の区別が明確に出来ればそれで構わないとは思うが(前も似たような事をどこかで書いたな)。

「で、そう言うオマエは何だ?」と問われれば、少なくとも疑問を呈するだけのリテラシーはあると答える。
「ホリスティック・ヒーリングとしてのホメオパシーとは、どういうものか?」
私の疑問はここから始まっている。
この視点で、Pseudo-homeopathyまたはPseudo-homeopathとは何かについても考えて行きたい。
その過程で、ホメオパシーとはどういうものか?が見えてくるのではないかと思っている。

なが~い前提を置いて、材料を揃えて来た。
ようやく、本題に入って行く(ホントかよ~!)

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分類とか(2)

かなり脳みそが悲鳴を上げているが、もうちょっと頑張ってみる。

医学は科学ではない=非厳密科学であるという前提を置いた所で、更に分類を進めてみよう。

言うまでもなく、一般に単に医学と言うと、現代医学または西洋医学を指す。
英語だとConventional medicineで、通常医療とか、何と呼ぶべきか迷うのだが、ここでは便宜的に、現代医学とか現代医療と呼ぶことにする。

さて、医学には他に、代替医療(または補完代替医療=CAM)と呼ばれるものがある。
それでもって更に、ホリスティック医学(医療)というのもある。
ホリスティック医学と代替医療は、概ね同じものを指すものと考えられるが、代替医療のほうが多くの医療体系を扱うだろう(逆もあり得るのか?)。

さしあたっては、少なくとも現代医学とホリスティック医学は、全く別のものと分類すべきと私は思っている(みんなそう思ってるよね)。
だから、ホリスティック医学ではなくて、いっそのこと「医学」というコトバを取っ払ってホリスティック・ヒーリングとか、呼称を変えちゃった方が、様々な混同や勘違いが減るのではないかと思ったりもする。
で、これらを都合良くごっちゃにしたのが、統合医療と言う事が出来るだろう(やや皮肉を込めて)。
結論を出そうという意図はないので念のため。

非厳密科学であると言っても、これまで現代医療は、科学性を志向して来た。
還元論的、機械論的人間観によるアプローチの現代医学のエッセンスは、必然的に「コントロール」であると思う。
科学技術の真髄が予測と制御であるなら、これは現代医学の在り様と、そして科学が不可欠な我々の社会の在り様に符合するだろう。
予測=診断、制御=治療、つまりコントロールである。

これが、いささか皮肉を込めた言い方であるのは認めるが、私は現代医学の在り様を否定している訳ではない。
今のままであって欲しいとは思わないが、これまで多くの人を救ってきたのは事実であるし、これからもそうだろう。
コントロールが、直に「治癒」を意味しないとしても、コントロールが有益な場面は多いハズである。

ホリスティック・ヒーリングは、良く知られているように、どちらかと言うと「心気論」の立場に近い。
これはしかし、サトル(微細)・エネルギーを「氣」と呼ぶか「ヴァイタル・フォース」と呼ぶかといった話でもあるので、単純に心気論という範疇に収まるとは限らないと私は思っている。

コンセプトは文字通り、「全体(丸ごと)としての人間を癒す」ということであり、癒しとは、物質的、生理学的な結果に留まらず、精神・魂をも含めた人間としての「Well-being」が向上することが大きな成果と考えるのである。

現代医療が、物質主義・還元主義的分析により「部分」を切り出して突き詰めるという意味で、「静的(Static)」な概念的傾向を持つ。ゆえに「コントロール」ゆえに「確実」。
ホリスティック・ヒーリングは、全体思考であり、自然の流れ(フロー)を重視し、その中でエネルギーという「動的(Dynamic)」な存在を見つめる。

両者が全く異なると言っても、もちろんこれは優劣を意味しない。
どちらも長所と短所があり、言うまでもなくどちらも完全(万能)ではない。
相互補完は可能であり、望ましいと思う。
その流れの上で、統合医療という発想がある。
しかし私は、日本におけるこの概念が、安易な文脈で用いられている場合が多いような気がして、違和感を覚える時がある。
つまみ食い的な「いいとこ取り」は、相互補完とも、あるべき統合医療とも違うと思う。

一番「ヘンだなー」と感じるのは、
統合医療やホリスティックを唱える人のHPや広告で「医者が行っている○○療法です」という文句を見る時だ。
これはかなり微妙なニュアンスなのだ。
医師が自分の資格を提示することは悪いと思わない。むしろ至極アタリマエの話であることは分かっている。
しかしヒドイのになると、「医者だけが○○療法を行うべきです」と来る。
まあ、ここには私が医者でないというヒガミが一部入っている(笑)
ゆえに少々被害妄想っぽいが、こういった所に、現代医学をア・プリオリに上位に置いた「コントロール」という思想を垣間見るような気がするのだ。

色々な意味で、社会において現代医学が「優位」にあることは確かだ。
しかし、件の論争を含め随所にチラチラ見え隠れする医師の不遜な態度(全員とは言ってません)、患者不在の医療などと揶揄されることもある末梢部から、医療システムに至る問題の根底には、この「コントロール」思想があるのではないか?

統合医療というと聞こえは良いけれど、単に現代医療の下に代替医療をぶら下げただけの形だけの「併合」は、統合とは程遠い。
色々な療法を駆使していますと言っても、その成果が、患者の心身において有機的に統合されなくては意味がない。
医師が鍼打ったりして成果を挙げること自体は素晴らしいことだと思うものの、それを統合医療とは簡単に分類出来ないんじゃないかと思う。

例えば、医師で、ホメオパシーあるいは漢方や食事療法、鍼といったものを勉強・実践されている人たちで、これらの各種療法に深く通じ、理解を深めておられる方の姿は、もはや医師でもなしホメオパスでもなしという感じで見事に「統合されたヒーラー」となっている。
こういう人を見ると、心から尊敬の念を禁じえないし、非常にウラヤマシイ。
(私は今から医学校行けないしねー・・・(涙))
だが、彼らが行うものがシステムとしての統合医療かと問えば、「???」なのだ。
要するに、統合医療とはかくあるべきという姿は、まだ見えない状態なのである。

ホリスティック・ヒーリングの概念では、患者が治癒の主役であり、治療者・療法者は患者の自発的な治療及び治癒をサポートするものとされる(自然治癒力が前提となっているからだ)。
真の統合を目指すのなら、そこでの過程もまた、患者が主役であるべきであろう。
そのためにも、あるべき統合とはどのようなものなのか?
もっともっと患者側が考えていかなくてはならない。
ホリスティックの世界にまでも、ネガティブなコントロールを持ち込まれないためにも。

面白い現象としては、代替医療の世界では「元患者」「現患者」が療法者を目指している場合が結構多いということがある。
代替療法者をコントロールしようとする者は、それが患者の立場に居る人のコントロールに繋がり、統合プロセスを硬直化させる可能性があるという事を頭に入れておいた方が良いだろう。
治療者が患者でもあるという構図は、この世界では珍しくない。
長い歴史の中で、ホリスティックあるいは代替医療・伝統医療を支えてきた人たちは、現代医療の隆盛の陰で、患者として療法者として、静かにそれらの伝統を守ってきた人たちである。
患者主役と言っておきながら、コントロールを振りかざすとどうなるか?良く考えてもらいたいのである。
(これがどういう人たちを指しているか、すぐ見当がつく人は多いと思うけど)

さて、ホリスティックと統合医療の区別は、結局何だったのか良く分からなくなった感じもある(文才の無さに愕然・・・)。
私の意見を整理すると、統合医療とは、やや現代医療にとって都合の良いように解釈・定義され、実践されているものであるというのが現状で、まだあるべき姿は良く分かっていないものである。

ホリスティック・ヒーリングというのは、古来より既に何らかの体系をもって存在している。
中国医学、チベット医学、アユルヴェーダ、ナチュロパシー、ホメオパシーなどである。
これらは科学というよりは、芸術といえるものであるが、それゆえ現代医学ほどの再現性と分かりやすさを明示出来ない。

このため、次世代のホリスティック医学が望まれており、その試みの1つとして統合医療が出てきたというのが現在の流れであろう。
この道の先駆者である帯津良一先生は、道程はまだまだ遠い、ということを仰っているが、行き先を間違えているとは言いませんけど、今一度、色々と見直してみた方がいいかもしれませんよ。

それから、代替医療とか補完代替医療というのも、通常医学(=現代医学)に対しての補完または代替という意味があると思うので、これも呼称を変えた方がいいんじゃないかと考えている。
加えて、補完はあっても、純粋に「代替」はあり得ないだろうと思う。
コトバの遊びと言えばそれまで。
「ホリスティック・ヒーリング」に含めても問題は起きないと思うが、どうだろうか?

さぁ~て、どこまで脱線(暴走?)するのだろう・・・

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分類とか

ホメオパシーに流派がいくつかあるというのは、ご存知の方が増えてきたと思う。
私は本来、分類とか、セクショナリズムに縛られるのは嫌いな方なのだが、
やっぱり改めて、必要な分類はしておいた方がいいだろうと感じる。
日本の情勢に合わせて、という意味では、単に流派の分類以外にも、一度、色々と枠組みを考えてみるのも面白いと思う。

前の記事から述べているように、医学は科学ではない。
ひとまず、ホメオパシーも医学に含まれるとして、まずこの分類から。

私が言う「科学でない」というのは、「非科学である」というのとも違う。
どういうことかと言うと、
一般的認識(再現性とか客観性とか予測精度とか)における厳密な科学でないという意味であり、
構造主義的な定義による「非厳密科学」ということである(かなりベタだなぁ)。
もう少し一般的な言葉を使うと、「人間科学」である。

なんだ、「科学でない」なんて、大げさでないの?
そう、その程度なのだが、物理学などの「厳密科学」と同じであるかのように、「医学は科学」「科学的なもの」という、あまりにも意固地な信仰者がいるので、確認が必要だと勝手に思っている。

例えばEBM(Evidenced-based Medicine)という、最近ではお馴染みの概念がある。
これ自体は、結構なことである。
だが、EBMが定着したのは、ここ数年のことであり、現在でも医療現場では、EBMに基づいて実践されているものは5割程度とか言う人もあって、全部が全部EBMという訳ではないのである。
変なフォローかもしれないが、私はそれで構わないとは言わないまでも、仕方がないのだと思う。
100%EBMでやろうとしたら、現場が回って行くハズがないのである。

しかし、「医学はエビデンスを積み上げた科学です」なんて、しゃあしゃあと言う人がいると、「オイ、ちょっと待て」と言いたくもなるというものだ。
ようやく、ここ数年で定着したものなら、それ以前は何だ?
ありとあらゆる項目に、信頼に足るエビデンスが用意されているほど、完璧なのか?
突っ込み所は、いくらでもある。

EBMというのは、Evidence-basedであると同時に、Experience-basedであるハズだ。
直訳すると同じ意味にも出来るが、
ここで言うExperienceというのは、「暗黙知」とか「語り得ない何か」として、個々の医療者が創発したり、師から弟子へと伝えられるもの、数値化出来ない何かを指している。
こんなこと、私が改めて言うまでもあるまいが、エビデンスを運用するのは人間である。
ただエビデンスを鵜呑みにして運用すれば良いという場面もあるかもしれないが、本来、その運用に当たっては、経験に裏打ちされた判断というのが必要であり、ある意味不確実なものである。

そもそもエビデンスというのが、統計によるもの(最上位はメタアナリシスによるものとされる)、つまり一般化・標準化されたデータであって、その示唆するものが、そのまま個々の患者に該当するかというのは、
Most likely、一番可能性が高い(もっともらしい)という話であって、しかも、その「もっともらしさ」のレベルが、エビデンスによって異なるものだろう。

統計というのは、見る人によって解釈が異なることが多いものである。
だから、まずエビデンスを徹底検証するという事から始まって、それが最も信頼に足るエビデンスとされるものであっても、当該治療に適用可能か否かを判断しなければならないだろうし、そういった判断も含めて、どういった治療を行うかは、医療者のExperienceによるところが大きくなる・・・ハズだ。

気をつけないと、エビデンスが、医療者のエクスキューズに使われる可能性もある訳だが・・・
(ガン治療におけるインフォームド・コンセントなどで、こういう事を指摘する人がいるね)

Anyway、そういった暗黙知の部分まで含めてEBM、と言うなら妥当な概念だと思うが、それは「厳密科学」とは異なる、実に多元的な解釈や方法論を必然的に内包する「非厳密科学」「人間科学」を意味することになる。(オマエに言われるまでもないという声はあるでしょ、当然)
まあ別に、厳密科学だからエライとか凄いとか、そういう事ではないのだが、科学信仰の強い人には納得出来ないのかねぇ・・・
むしろシンプルに取り組みにくい分、チャレンジングで面白いと思うのだが、どうして「科学的でない」ことが、まるで卑下されたかのような発想になるのか、私は理解出来ない。

医学に限らず、経済学は数学を導入したから科学だとか、じゃあ社会学はどうなのかとか、心理学は科学じゃないのかとか、厳密な科学性を、もうちょっと言うと、数値化されるか否かという意味での厳密さを価値観の尺度にして優劣をつけるかのような姿勢には、違和感を禁じえない。

医学者にも、少なくとも臨床家には、「科学を利用してやってるけど、科学じゃねーよ。人間って、すげー難しいんだよ。文句あるか?」って言うぐらいの勢いが欲しいなぁ(笑)

TVなどでもよく紹介される、「神の手(ゴッド・ハンド)」とか「ラスト・ホープ」とか呼ばれる医師たちがいる。
その恩恵に与れる患者さんにとっては、実にアリガタイ人たちだが、医学が科学と言う人にとっては、とってもアリガタクナイ先生たちだ。
それは、多くの場面で「再現性が低い」と言っているようなものだからである。
科学的に厳密な再現性が確保されているのなら、名医の存在はおかしい。
ついでに言うと、「病院ランキング」なるものも、この観点からは実に滑稽だ。

セカンド・オピニオンもまたしかり。
別の医師の意見を聞いてみろって、要するに再現性が疑われている訳だ。
あっちへ行ったら「治療しなきゃ、命に関わります」と言われ、こっちでは「放っといて大丈夫です」と言われたりする。
ある時「何もありません」と言われ、半年後に別の所で「肺癌です」と診断され、半年前の画像を見せたら「この時からありましたね」と言われたりもする。
これらは私の親族に起きた実話だが、世の中には、こんな話はそこらじゅうにゴロゴロ転がっている。
逆に考えれば、セカンド・オピニオンを認める傾向にあるのは、「医学は(厳密)科学じゃないよ」という視点からは、必ずしも悪いことではない。

血液を分析する、画像を撮る等、これらは科学技術のお陰だ。
再現性を可能な限り担保するために、精密機械やEBM・統計的手法を導入するのも良いだろう。
しかし、それらから得られるものを見て判断するのは人間であり、個人差がある。
そういう要素が、「科学」という信仰で目隠しされている感じだ。
精密機械やEBMが医学なのではない(分かってると思うけど)。

基礎研究は科学だと、あるいは厳密科学に近いと言うことも出来るだろうけど、その成果には、どうしても臨床からのフィードバックが必要であり、医療者と患者の関係性という実に人間臭い部分から無縁ではいられない。
人間という生物の持つ個体差、多様性、そして何よりも、人間の認知というものを厳密にコントロールすることは出来ないのである(少なくとも、今のうちはね)。

医学・医療というものは、広い意味での科学の中でも、かなり不確実な「人間の行為」に依存する領域であり、科学というよりはアートに近いものだと思う。
それを厳密科学と比較して卑下する必要はない。
科学技術や方法論の利用は必要だが、医学の真髄というのは、そういったものを超えた所にあるのだろうと思えるし、それを真摯に探求する姿勢をもって医学は医学として堂々と(?)しておればいいと思うのだ。
こういう認識ってオカシイのだろうか?ていうか、そういう認識じゃなかったの?

以下は、いわゆるホリスティックな医学観ということになるが、「内なるドクター―自然治癒力を発動させる、奇跡の処方箋」グラディス・テイラー・マクギャレイ著 フォンティン・上村知代訳 より引用して、「医学は(厳密)科学ではない」という話題に一区切りとしたい。

医学が科学だと信ずる人々は、常に医学をコントロールし、医師と患者を、ある特別なカテゴリーやモデルにはめ込もうとしてきた。こうして私たちは、科学という「神」を作り上げてしまったような気がする。
だから病院、医学校、科学研究所、そして政府が、神聖にして侵してはならない「神殿」と化してしまったのだ。
これらすべてが悪いと言っているわけではない。しかし、真の医学を理解しようと思うならば、重きを置く場所を誤ってはいけない。科学は「神」として信仰するべきものではない。それは人の手によってコントロールされ、人間の知恵によって限定使用されるべきもの。こういう視点から健康維持を考えることこそ、真に「科学的」な態度だと私は考える。
科学としての医学は、病気の研究に取り組む。いっぽう芸術である医学は、生命の研究に取り組む。それは死と病に焦点を置く科学的な医学と違って、喜びに満ちた総合芸術であり、学問だと言えるだろう。
そこでは医師たちが、患者の病気ではなく、治癒を目指すパートナーとして、丸ごとの患者自身を見つめている。パートナーとしては当然ながら、患者は自分自身の癒しについて意見をもたなければいけない。芸術としての医学において、人間の身体こそ神の宿る神殿なのだ。

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科学と宗教

ホメオパシーは科学ではない。
医学もまた、科学ではない
但し、双方に科学的な部分はあるだろう。

私は、こういう前提を置いている。
この、議論を始める前に合意されていなければならないハズの前提自体が、存在しないか、ズレっぱなしという場合が多いのである。

もう少し補足しておくと、
どちらも科学ではないが、だから間違っている訳ではないということだ。
言うまでもなく、これまたどちらも完全ではない。ゆえに真実とか、そういうものでもない。

では前提の前提?として、そもそも科学的であるとはどういうことか?
科学と非科学との間に決定的な線引きを出来る見解は、あるようで、無いようなのだ。
決定的な線引きが完璧に出来ると宣言した時点で、科学的ではないと言われかねないし(笑)
また、「科学的だけれども、正しくない理論」というのもある訳で、こういうのは厳密にはインチキとは言わないのであるから、
「じゃあ、何がトンデモ科学になるのさ?」
という問いに答えるのは、実は容易ではない。慎重さを要する。
容易ではないのに、安易に「インチキだ」とのたまう輩が多いから、全然科学的でない情緒の押し付け合いの場面(言い合い)が出てくるのである。

ある事象を、科学の名の下に、「インチキ」「トンデモ科学」と分類したがる人に限って、その事象は宗教・思想に過ぎないと安易に片付けたがる論調が散見される。
「科学的に証明出来ないから、正しくない」と全否定で来る。
全否定は全肯定と実は同じことだ。
科学だけが正しいものという一元論に走る時、それは宗教を信じるのと同じ心的機構が働いている。
養老孟司氏は、一元論は一神教に通じるといった事を述べている(古くはマックス・ウェーバーか?)。
氏の主旨とは異なるだろうが、科学の妄信が、科学のみを正とする一神教ではないと、どうして言い切れようか?

全ては物質に還元される。心でさえも物質について解明されれば、おのずと解明される。この極めて科学的な(に見える)唯物論的一元論は、突き詰めると「一切は幻」という心的一元論になってしまうというパラドックスが指摘されている。
我々は、当然あるハズと思っている自分の意識さえ、どこに帰属するものか(あるいは、どこにも帰属し得ないのか)分かっていないのである。
「科学で分かっている」という事が、妄想でないとも言い切れないということを、脳科学(哲学)の知見は我々に突きつけている。

君に意識があると、どうやって私に証明出来る?
自分が今、夢を見続けているのでないと、どうして言える?(本のタイトルにあったような・・・)

池田清彦氏の言葉を借りれば、

私達は誰でも、個別科学の全ての理論に精通することは出来ず、従って全ての理論の当否を自分で判定することも出来ない。殆どの人が自分で当否を判定出来ない理論が、正しいものとして社会的に流通しているという不思議な事情がある。
大方の人々は、科学の理論家でもなければ、宗教の教義に関与するような宗教家でもない。これらの人々にとっては、特定の宗教の教義も、特定の科学理論も、その当否は自分で確かめることも出来ずにただ信じるだけのものであり、その意味で普通の人々にとっては、宗教も科学もおんなじである。
(「構造主義科学論の冒険」)

池田氏は更に、科学理論の真理性という概念は、科学と社会の発展に有害であると言う。科学を妄信してはいけないと。
(それはなぜかと言うと、科学は公共性を担保にしているからといった話になるようだが、ここではこれ以上言及しない)
ファイヤアーベントなどは、ニセ科学の存在が科学の進歩に寄与するとまで言ったとか・・・(脱線)

要するに、科学的に解明されたといっても、それはごく一部のアタマのイイ人たちが、腑に落ちた。
「ま、それでいいんじゃないの」と合意したということであって、
将来、「やっぱ違ったわ」という事態が起こり得る仮説に過ぎないのである。
一般の人々がその仮説を信じていると思っているのは、実は、その仮説を支持するアタマのイイ人を信じているだけである。
その人知ってるの?と聞けば、「???」
ハーバード大教授だとか、ノーベル賞もらったとか、本書いてるとか、本の帯に「○○界では第一人者」と書いているとか・・・

余談だらけで申し訳ないが、私は、宗教の存在を否定していない。特定の宗教を持たないが、無神論者と言う訳でもない。
レッドソックスの松坂投手がマウンドに向かう時に、ラインを踏まないように、必ずポーンと飛び越える、そういう程度の信仰なら殆どの人が持っているであろう。
これだって宗教だと、私は思う。

もう少し科学について妄想しちゃおう。
科学とは何か?実は普段良く考えないからね。

大体のところ、
「客観性」と「再現性」を追及する学問であると、一般には考えられているのかな?
それゆえ、「予測可能性(あるいは予測精度)」が高い。そういうものか。
うーむ、これだけでは、どうもしっくり来ない。。。え?しっくり来るの??

分かっている事は、科学は真実を解明するものではないという事であろう。
ここの所を、「科学的であることだけが真実であり、正しい」と勘違いしてはいけない。
いや、若かりし頃の自分もそうだった。
それが、年の功?いや、加齢し、様々な経験を持った自分の存在への想いからか?

「人間の営みの1つが科学であって、科学の一部が人間の営みなのではない。」

その方が腑に落ちるようになっちゃったんだね。

再現性を重視すると、対象分野が限られてくる。
どこかで、「時間」という概念を取り外して再現性を問わなければならない。
少なくとも我々生物は、時間の矢を逆向きにすることは出来ない。
従って、生物の営みは、厳密な再現性を問うことは出来ない。
これは恐らく、生物に限らない。あらゆる事物の振る舞いは、時間の制約を受けるだろう。
だから例えば生物を扱う分野が科学的ではないとは言わないが、科学が再現性の下に全てを解明すると考えるのは妄想に過ぎない。
科学に厳密さを要求する態度があれば、逆にこれは否定出来まい?

客観性もまた、観測や分析にまつわる人間の意識という主観的な要素を含んで、厳密な客観性を担保することは難しい。
客観性を判断するのは人間の主観である。
だから、科学とは解釈学という要素も含んでいる。

科学的に解明すると言うと、因果関係を証明するというニュアンスがありそうだ。
しかし、実験科学で証明出来る事は、相関だけである。因果関係を証明する事は、基本的に不可能だと池谷祐二氏は言う。
「これこそは愛の源だ」という因果関係は、科学では永遠に解けない(笑)
(「進化しすぎた脳」)

あらゆる物質は、どんどん還元して行くと、陽子、中性子、電子で構成され、更には、クォークになり・・・まだ小さい単位まで見つかるかも知れないけれど、
「で、なんでそうなってんの?」という疑問には答えられないのだ。
その問いに答えようとすると、神とかサムシング・グレートとか、そういったものを想定しないと説明出来ないと考える人も出てくる訳だ。
別にこれがおかしな態度だと私は思わないが、そうでない人もいるんだろうねぇ。

一元論だって、事象をどこまでも細かく還元して行って・・・ずぅーっと・・・それで「行き着く所」があるという「確信」がどこかにあるから、一元論なんでしょ?
それって、神という言葉で表現するか、それとも別の言葉か分からないけど、少なくとも、その態度や確信は、一神教と変わらないと思うけどね。

再び、池田清彦氏によれば、
科学とは、真理を目指すものではなく、「同一性」を目指すものである。
なにか変化する現象を、「同じもの」「同一のもの」として扱う、つまり変化しない不変の同一性を担う「言葉」を使って表現することである。
養老孟司氏は、同一性を情報という概念を使って、「実体は万物流転していて、情報は固定している」と表現している。(「人間科学」)

確かに科学は、様々な自然現象について一般的なかたちで記述しているし、事実、その記述はさまざまな科学の応用などで妥当であることが確認出来る。
しかし、科学は自然現象の中からあたかも繰り返している「かのように」考えて差し支えのないことを同一性で記述し、一般化しているということであり、けっしてその逆ではない。つまり、自然現象が同一のことを一般的に繰り返している次第を、科学が正しく写し取っているのではないのである。
(「心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く」山本貴光・吉川浩満)

うん、こっちの方が、私には腑に落ちる。

現象は、あっち、こっちに存在し、起こっているのだろう。
だが、科学理論自体は、情報という形で合意された同一性(あるいは構造)として、人間の頭の中にあるのであって、人間の外側にあるのではない。
なんだ結局、唯脳論か?という声が聞こえて来そうだが、
そうね、私は心的唯物論か、物的唯物論か、二元論かとか、考察出来る準備が出来ていないが、少なくとも、意識と脳の問題が解けない限り、科学論もまた結論が出せないだろうとは思っている。
ん?つまり結論なんてないのだ。

さて、自分としては(1人勝手に)腑に落ちた。お茶タイム♪
取りとめもない妄想を展開したのは、前提をハッキリさせるという目的であった。
妄想によってハッキリさせるというのも、妙な話だが・・・私の前提は、結局は人間の営みであるという事だ。それは限界を認識するという事でもある。
そうか、妄想を認識するという事なのかもしれない。

で・・・何だか書けば書くほど、エントロピーの法則よろしく纏まりがなくなり、脱線・脱輪して行くね(苦笑)
まあ、このブログ自体が私の脱線記録みたいなものだから仕方ないか。
でも、議論というものは、こういう所からようやく始まる・・・べきものと、私は考える(勝手だけどね)。

が、ここで妄想ついでにもう1つ。
「科学の妄信はやめとこう」というここでの前提を確認したところで、
「ホメオパシーの妄信もやめてもらいたい」
と私は言いたいのだ。

それは結局、科学教と一緒だよ。

否定派の人たちが、突っ込み、非難したくなるオオモトは、この某コミュの人たちの多くが、知ってか知らずか拠り所としているであろう某団体のやり方であり、その心情は分からんでもない。
遺憾であるとするのは、否定派の人たちが、現代医療への一種のアンチテーゼとして存在するホメオパシー(カルトもそうでないのも含めて)を否定しようとする論法それ自体が、現代医療や科学に対する不信感の源泉が何であるかを部分的に証明してしまったということだろう。
論述の内容というよりは、論者の態度の方が問題だったと思うけど、それが「情緒の押し付け」という結果を生んだ。元々前提がズレているのだしね。

私は、ホメオパシー・カルトになってしまってはいけないと、昔の記事へのコメントで述べた。
以前からカルト化する要素が多いように私には思われたからだ。
当事者は、カルトに嵌っているとは思っていないだろう。
だが現状は、排他的な情報統制・巧妙なマーケティングによって、それと知らずに洗脳されている人が多いハズだ。

mixiのコミュでも、ブログでもどこでも、この団体のスパイが居て、誰が何を言っているか監視しているという話は良く聞く。
学生・卒業生でさえ、戒厳令下にある。
そのうちここにも嫌がらせが来るかもしれないね(苦笑)

カルト化の手法は、「ホメオパシーの概念・方法論についての固定観念を植え付ける」というものである。
ありきたりなのだが、これは医療不信との相乗効果もあって、随分成功している。
なにせホメオパシー否定派でさえ、この固定観念に縛られているのだから。
(そうでない人が、論争中、否定派にも居たという発見はあったが)

最近、実際にプラクティスを始めてみて、この固定観念による弊害が結構多いということを思い知らされた。
それはやっぱり、以前から感じていた日本のホメオパシーに対する違和感である。
せめて情報の偏りを多少でも修正出来ればと、そういう思いがこのブログ立ち上げ当初の主旨の1つでもあった。

但し、それを行うに当たって、私自身が排他的になって同じ穴に落ちるのを避けるよう、気を付けていたつもりである。
これに加えて、各方面に居る友人・知人の立場を考えると、どうしても論調がマイルドにならざるを得なかった。(迷惑かかったらゴメンね!)
気分が良いものではないしね。

ホメオパスがホメオパシーを批判するのを見るのって、嫌なものです。
それでも、この「へんな感じ」を、もう少し声高に叫ばなければならないなーと思う。

前から言っているように、医師のホメオパシーでも、日本独自のプラクティカル・ホメオパシーでも、クラシカルでも、「そういうものだと分かってて、ハマってる(選択してる)」という人には、大人の選好の問題だから、別段「やめなさい」と言う気はない。
が、本当に分かってるか?今一度考えて欲しい
・・・というか、一緒に考えて行きましょう!

訳語の定義も、一部見直す必要があるかも(っていうか、定義あったのか?)
私の妄想であってもね。

「ツラツラ書くよ」と始めて、実際まだ殆ど始まってないからねぇ、
どうなることやら(苦笑)
排他的にならないように頑張るけど、少しトゲ出ちゃうかも。
本当は、のんびり、お気楽にやりたいんだけどな~
既に1ヶ月分ぐらいの記事書いた気分・・・

【参考文献】

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ROMの視点から

最近、ホメオパシーについての論争が盛んだった・・・いや、ますます盛んになって来た?ようである。
先日、mixiの某コミュニティでも、肯定派と否定派の議論、というより、残念ながら後半は揚げ足の取り合いになっていたが、興味深いコメントが展開されていた。

私は基本的にROMである。
このホメオパシーを扱うコミュで語られている内容に関して、私は懐疑派であり、そうかといって、立てられたトピックに対して、一々ガミガミ言っていると、せっかくの話に水を差す。
参加者の方々のコメントは、日本のホメオパシー界の現状を理解する上で非常に有益であり、大変ありがたいのだ。
「ずるいじゃないか!」と言われるかもしれない。
けれど、否定意見ばかり述べていると、結局、心情的には「荒らし」と変わらなくなるだろうと思う。
実際、別の保守的?なホメオパシーのコミュは、「○○に効くレメディは何ですか?」といったトピックが歓迎されず、それゆえお世辞にも活発なコミュとは言えない。
(このコミュも、結局、ある学校の色が強くなっているので、余計に活性化されない)

論争についてであるが、
トピックは、「レメディの効果は科学的に証明されていないので、インチキだろうから、議論しましょう」という主旨のものである。
こうなると、コミュのカラーに関係なく、私は肯定派に属する訳だが、ここでもROMを決め込んでいた。
恐らく200年ぐらい専門家の間で議論されて来て、いまだに結論が出ないものである。最後は荒れるだろうなと思っていたら、案の定であった。

それでも、この論争に参加した人を「バカなことやってる」と嘲笑うつもりはない。
あまりにも礼を失した輩が、否定派の医療従事者にいたことは、念のため指摘しておくが・・・
それぞれのコメントは、トピずれしたものも含めて、日本のホメオパシーのみならず、医療という事を考える上で、様々な課題を表出している。
(いやいや、実際、トピずれしたコメントの中に、結構面白い論点があるのだ)

実は一番驚いたのは、肯定派の人たちの心情であった。(否定派の人の言いたい事は、大体見当がつく)
それは現代医療や科学を正しいとする人への反発であるのか、ホメオパシーへの信頼(あるいは妄信)であるのか、まあ様々であろうと思うが、「科学的でなくても構わない」という人が多いという事実は、ある意味頼もしいものであった。
(このコミュの人たちは、かなり逞しい)

最近、私の知人があるブログを教えてくれた。
知人いわく「毒舌ブログ」
ホメオパシーについて・・・というより、日本のホメオパシーの現状について、歯に衣着せぬ発言(記事)を掲載されているブログである。
ホメオパシー否定ブログと自称しておられるが、書いてある事は非常にしっかりとした、的を射た内容であり、各方面で人を不愉快にしている「自称・科学的思考の持ち主」とは一線を画す(そんなのと比較するな!とお叱りを受けるかもしれないが)。
毒舌ではあるが、罵詈雑言とは、私は思わない。知人も、好意的にそう言っている。

何でこのブログの話をするかと言うと、
私が登場しているからである・・・というのは半分ウソ(笑)
当該論争について、この方が言及しておられるという事もあるのだが、論争から表出した課題の1つについて、この方のご意見が、私の思う所と符合するように見えたからである。
もちろん、その主旨は、私とは違っているだろうと思うが、これは非常に重要な論点である。
後で改めて述べるが、それは、
「ホメオパシーは科学ではない」
という意見である。
こんな事を言うと、同僚から袋叩きにされるかもしれないが・・・。

このブログでの主張は、私の考えに不思議と通じる所があるように感じる。
立ち現れた結果が違うのは、あちらは否定派(完全否定派とも少し違うようだが)、私は肯定派という立脚点の違いから派生するものであろう。

論争以外の話題についても書いていく予定であるが、、この方の唱える非難、もしくは呼び掛けに、促されて答えたように見える部分があるだろう。
そういう面も否定しないが、言われたからというのも、ひねくれモノの私としては居心地が良くない(笑)
が、ついぞ読んでしまったがゆえに、改めて、見過ごす訳には行かなくなったというのも確かであり、感謝しなければならない。
・・と思って、自分のブログを読み直してみたら、結構、日本のホメオパシー界(言いたい事は分かるね?)について、批判しているじゃないの。言葉はマイルドだけど(苦笑)

この方は、基本的に参照したブログ等のリンクを貼らないという方針の様なので、それを尊重して今回は貼らないことにするが、拝読した旨、この場でお知らせしておきたい。
(あれ?今、良く見たら、リンク貼ってあるね・・・まあ知りたい人はお問い合わせください)

さて、表出した課題と私が勝手に解釈しているものは、
「ホメオパシーは科学でない(そもそも医学は科学ではない)」
「医療の目的適合性」
大きく分けて、この2点である。(が、後で、この分類が間違えている事が判明するかも知れないね)

これらには、科学と非科学の線引き問題、プラシーボ、2重盲検法やEBM、患者と治療者の関係性など、様々な観点が含まれる。
それぞれについて、アタマの良い専門家が研究している事であるから、私の足りない脳みそで考えた所で、議論に耐える見解がヒネリ出せるとは思っていないし、私自身が科学的思考の持ち主ではないが、ようやく少し考える時間が出来たので、これから何日かかるか分からないが、ツラツラ(ダラダラ?)書いていこうと思う。

あまり言いたくは無かったが、もう1点。
あるホメオパシー団体の方法論について、どうしても言及しなければならないだろうね。。。

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ケンティアンとハーネマニアン

ちょこちょこお問い合わせがあったので、書いてみます。
私が解説するのに適任であるかは分かりませんが、一応、知っている範囲で見解を述べておきます。

ケンティアンとは、ケント(James Tyler Kent)というアメリカのホメオパスの方法論に基づいている人たちです。
ケントの哲学は、幾分(かなり?)宗教的(キリスト教的)な色彩があり、また彼は、エマニュエル・スウェーデンボルグに影響を受けています(スェーデンボルグの思想がキリスト教的とも言えるか?)。
彼は、実用性という意味では事実上、最初のレパートリーを編纂した人としても知られています。

ケントの方法論は、もちろんクラシカル・ホメオパシーですので、類似の法則、最少投与、単一レメディ、治癒の方向性といった面を網羅しています。
ケンティアンを批判する人が問題にするのは、Organon第6版が、ケントの没後に出版された事から、彼は第6版の存在を知らなかったという点です。
これは特に、ポーテンシーとリピートに関して、重大な差異を方法論にもたらすということを意味しています。
LMポーテンシーですね。
このことから、ケンティアンという言葉は、しばしばハイ・ポーテンシーの1回投与で、長期間待つ方法を示唆します。
(この点で、由井寅子氏がOrganonまえがきで指摘したことは間違えてはいません)

ハーネマニアンというのは、もちろんハーネマンの方法論に基づいている人たちです。
「これこそがホメオパシーだ」と彼らは言う訳ですね(笑)
彼らもクラシカルですから、その哲学はケンティアンと似ています・・・と言うと、ケンティアンがハーネマニアンに似ているのだと怒られるかもしれませんが。

ハーネマニアンは、第6版に基づいてレメディをリピートしますが、重大な方法論上の差異は、ポーテンシーとリピートだけではありません。

ケンティアンは、ケースを分析する時に、精神・感情的な側面を最上位に置きます。時には身体的な症状を無視するようにも見えます。
これに対し、ハーネマニアンは、身体症状とそのModalityという側面を重視し、精神的・感情的な側面を、レメディを選択する際の差別化に使います。

どちらがよりファンダメンタルで実践的かは、一般に恐らくハーネマニアンに軍配が上がると思います。
この点こそが、ハーネマニアンがケンティアンを批判する根源だと考えられます。
ケントの哲学は、そのヒエラルキーの頂上に精神的側面を置き、宗教的な教えと関連付ける傾向にあります。それゆえ説得力もあり、魅力的でもあるのですが、現実と乖離していると考える人が出てくるのも当然です。

しかし、だからと言って、ケンティアンの方法論が間違っていると言い切れる訳でもないと思います。
ケントは、誰もが、ハーネマニアンでさえも、認める偉大なPrescriber(治療家と訳すべきですかね)でした。
ですから、ケントの方法で多くの人が救われたのです。と言うよりは、ケントによってと言った方が適切かもしれませんが。。。

ケントの方法論は、ケント程の域に達した人しか使いこなせないものなのかもしれません。
恐らく、これがケンティアンの最大の不幸なのだと思います。天才の真髄は、他人に受け継がせるのは難しかったのだろうと。
私は、それが多くの人が使いこなせる方法論なのかどうかは別として、治癒という山の頂上を目指すルートの1つだと考えます。

また仮に、Organon第6版の内容をケントが知り得たとして、彼が自分の方法論を変えたかどうか分かりませんし、全く別のものが出てきた可能性もあります。
前の記事で述べたように、ケンティアンと呼ばれる方法論が、今も同じ姿なのかも分かりませんし、ケンティアンの人たちが、LMポーテンシーを全く使わないのかというのも疑問です。

個人的には、流派というのは「方法論的な傾向」に過ぎないというのが私の考えです。(コチコチに凝り固まっている人というのも、やっぱりいるでしょうれけど)
それぞれの方法論者が、常に同じ手続に従ってケースに取り組んでいるか、あるいは、常に取り組んでいるという人が、その流派の中にどれだけいるのかは分かりません。

いずれにしろ、ホメオパシーを学ぶ上で、ハーネマンとケントは避けて通れませんから、彼らの教えをどう自分で消化し、昇華出来るかという事でしかないのだと思います。
我々は結局、色々な方法論を学びながら、自分の個性に合った方法論を探さなければならないのです。
それが結果的に、どっち寄りか?その程度はどれぐらいか?というだけの話です。

これらの流派には、どういう人がいるのかという事ですが、
私自身が、そもそも明確にはどちらにも属さない人なので、個人的なご縁はないのですけれど、
ハーネマニアンで有名なのは、
Andre Saine、Luc De Schepperです。共に著書があり、とても勉強になります。
それからISHJのUndergraduateでOrganonを教えている講師Ralfは、ハーネマニアンのようです。
ヴィソルカスはケントの影響を強く受けていると言われていますが、ヴィソルキアン(Vithoulkian)という言葉もあるぐらいなので、ケンティアン寄りではあるものの、別なのかもしれません。実際、ヴィソルカスは彼なりの方法論を持っています。

で、現代のケンティアンが誰なのか?
残念ながら、私は良く知りません(苦笑)

まあ、流派の分類自体はさほど意味があるとは思えませんが、巨匠達のアプローチを研究するに際して、大体の整理はしておいても良いかもしれませんね。
ホメオパス偉人伝のようなものは、英語ですが、
http://www.wholehealthnow.com/homeopathy_pro/homeopathy_1755_1799.html
に詳しく出ています。

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Sankaranセミナー

GWにインドの巨匠、Rajan Sankaranの東京セミナーが開催された。

5日間のうち、後半の3日間に参加させていただいた。

講演内容は、ここで公開するわけにはいかないのが残念だが、非常に楽しめる内容だった。
私は、師の1人であるJon Didymusに最近の知見を教わっていたので、特別真新しいという感じはなかったが、それでも新しい発見が幾つかあって、有意義な3日間だった。

Sankaranの一連の著作やボンベイ・グループのワークを見ていると、
東洋哲学的な色が感じられる。
何となく、仏教思想的にも感じられるのは私だけか?(ヒンドゥー教は良く知らないし)
道教的とも言えるかもしれないなぁ・・・まあ、つまり東洋的なのである。
インド人だから、アタリマエとも言えるが、こういった思想・哲学背景に、数学的思考が組み合わさって、彼らのシステムになっているのかなー?
などと考えてしまった。

ホメオパシーは、西洋で生まれたものであるが、東洋的思想を随分取り入れている。
単に、結果的にそうなっただけなのかもしれないけれど、結構影響がある。
Sankaranのアプローチは、更に東洋の色が濃い(と思う)。
ゆえに、ホメオパスであっても、コテコテの西洋思考の人はついて行けない、理解不能の部分も多いのではないかと思う。逆に、日本人には馴染みやすいのではないか?

ジョージ・ヴィソルカス(ギリシア)やアンドレ・セイン(カナダ)などは、Sankaranは、アロパシー以上に害が多いと言ったらしいが、
私はこれを聞いて、特にヴィソルカスがギリシア人なので、「ミリンダ王の問い」という古典を思い出してしまった。
ギリシア的論理思考と、インド的抽象志向(でいいのかな?)は、やはり相容れないのか?

こんなことを書いていると、科学教のカルト信者から「やはりホメオパシーは、思想・哲学・宗教に過ぎない」なんていう声が聞こえてきそうだけれど、人間を見つめる学問である医学に体系的な哲学が存在しないっていうのも、どうかと私は思うけどね。

あ・・・脱線した。
とにかく、私はSankaranのシステムに、人間を深く見つめる姿勢を見い出して、それに共感する者であるので、今回、そのご本人の講演を聞けたことは非常に意義深いことであった。

そしていつもの事ながら、熱心に聴き入っている参加者の方々と接すると、自分ももっと精進しなくてはとの思いが強くなる。

Sankaranが、ジョーク好きなオジサンであったというのも、大きな発見だった(笑)

主催者のホメオパシー私塾の方々、渡辺先生、そしてボランティアでセミナーを盛り上げてくださった皆さんに心から感謝したい。

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Organonにまつわる話

ようやくホメオパシー創始者ハーネマンによるホメオパシーのバイブル「Organon of the Medical Art」の翻訳が出た。

医術のオルガノン 第6版
由井寅子日本語版監修 ロイヤル・アカデミー・オブ・ホメオパシー訳 ホメオパシー出版

ホメオパシーを勉強するものにとっては、もちろん避けては通れない書物であり、他のハーネマンの著書、ヴィソルカスの「サイエンス・オブ・ホメオパシー」、ケントの「ホメオパシー医学哲学講義」と併せて、ホメオパシー学校では必読書となっている。

ハーネマンが生涯をかけて改版を重ねてきただけあって、内容が濃い書物で、難解でもある。
お世辞にも読みやすいものとは言えない。
翻訳陣には感謝したい。ドイツ語版からの翻訳との事であるが、翻訳者の方々の苦労は大変なものがあったろうと思う。

序論でハーネマンは、かなり辛辣に当時の医療を批判している。
これは、新しい医療を打ち立て、当時の体制との孤独な戦いを強いられたハーネマンの厳しい状況を反映したものとも言え、ある意味ご愛嬌。
逆にホメオパシーを愛するものにとっては、微笑ましい(?)論調でもある。
もちろん、1800年代の執筆当時の社会・医療事情を反映しているので、ここで書かれている事が、そのまま全て現代に適用される訳ではないと思う。

ホメオパシーの方法論もまたしかり。
実際、ハーネマンを信奉しながらも、新しい発見によりハーネマンの教えを一部放棄している人も多くいる。しかし、そういった人達の発見も、この本に書かれている事が出発点となっているのである。
そして依然、ホメオパシーに興味があるものにとっては、たくさんの発見がある本だと思う。

ホメオパシーのみならず、現代医学、代替医療、ホリスティック医療等、全ての医療関係者、そして病に苦しむ人に是非読んで欲しい著作である。

実はこの記事は、書評が目的ではない。
もちろん、オルガノンは、是非多くの人に読んでいただきたい。

しかし、由井氏による日本語版監修者によるまえがきには誤りが散見され、内容にバイアスが掛かっているので注意が必要だ。
日本の第一人者と目される人が、知らなかったのか、故意なのか分からないが、いずれにしろ問題があると思うので、以下、指摘しておきたい。


ケンティアンと呼ばれる人たちの方法論がクラシカル・ホメオパシーの正体だとしている

これはある意味正しい。というのは、クラシカル・ホメオパシーという言葉を最初に使ったのがケントだと言われているからである。
彼女がここで述べているケンティアン像は、他の流派の人がケンティアンを批判する時に良く使う表現で、取り立てて的外れでもないと思うが、果たして「現代の」ケンティアンが、100年前と同じものなのかは分からない。

問題は、クラシカル=ケンティアンではないということ。
ケンティアンは、これまた数あるクラシカルの流派の1つに過ぎない。


アイシー・アガーがプラクティカル・ホメオパシーの開祖であるとしていること(P2、上段)

アイシー・アガーという人は、Eizayagaを指すものと思われるが、Eizayagaはクラシカル・ホメオパスである。
「ハーネマニアン」だと由井氏は書いているが、当のEizayagaが、ハーネマニアンをクラシカルとしている。
通念上も、ハーネマニアンとは、ハーネマンの教えを至上とする人たちであり、クラシカルである。

確かに彼は階層メソッド(レイヤー・メソッド)を確立した人物であるが、著作を読んでも彼がコンビネーション・レメディを推奨している痕跡は無いし、レイヤーがプラクティカルの専売特許という訳でもない。
レイヤー・メソッドもまた、数ある方法論の1つに過ぎない。

また実際に、クラシカルとプラクティカルの境界を、方法論の違いによって引くのは難しく、最終的には、「コンビネーションを使うか否か」という部分に収束すると思われる。
それゆえ、これらに対応して、「ユニシスト」「コンプレクシスト」という呼称もある。

ちなみに彼女は、Eizayagaについて似たようなことを、自著「ホメオパシー in Japan」で書いている。
旧版では、クラシカルは高ポーテンシーしか使わず、リピートもしないといった事を書いて、ホメオパシーを知る多くの人の冷笑を買った。
新版では改定されて、プラクティカルも基本的にはクラシカルと同じとも書いているが・・・。それとこのEizayagaである。


弟子がコンビネーションを使ったらよく効いたという手紙を受け取り、オルガノン第5版に載せようとしたといういきさつについて(P4、下段)

これは、ハーネマンの弟子のホメオパスであるBoenninghausen(ボウニンハウゼン、またはベニングハウゼン)が1865年に友人に宛てた手紙を参照しているものと思われる。

この手紙によれば、

1832年から33年頃、Dr. Aegidiという人に強く勧められて、Boenninghausenはコンビネーションを試してみて、時折、驚くような結果を得た。
ハーネマンは、Boenninghausenからコンビネーションについて聞き、自分も実際に試してみた。そしてコンビネーションについて第5版において言及することを考えた。
しかし検討を重ねた結果、コンビネーションはあまりにも危険であると判断し、Boenninghausenの薦めに従って、第5版(1833年出版)よりコンビネーションを否定した(オルガノン§273)。

ここには、由井氏が解説する様に、アロパシー(西洋医学)に悪利用されたり、(当時は)新しい治療システムであるホメオパシーを否定するような材料を与えたりすることを防ぐという政治的な意図もあったと言われる。

しかしこれ以降、ハーネマンも彼も(そしてDr. Aegidiも)、コンビネーションを使うことは無かったとBoenninghausenは証言している。
この手紙はハーネマンの没後書かれている。つまり、ハーネマンは以降、生涯コンビネーションを使うことはなかったのである。

偉大なる実験者であったハーネマンが、自分で試しもしないで、生涯の力作であるオルガノンにそのような事を書くはずもなく、また同書を通読すれば、コンビネーションを前提にするのなら、多くの箇所を改定しなければ論述の一貫性を欠いてしまうことが分かるだろう。

また、自分で実験したことのあるハーネマンが、本当に価値のある方法だと判断したならば、誰が何と言おうともコンビネーションを採用したのではないか?

壮年期で新たな研究への意欲が無かったのか?
そうではないだろう。

第5版から第6版の完成まで10年程掛かっている(完成は1842年で、亡くなる前年)。
この間、ハーネマンは更に自分の方法論を発展させ、それこそケンティアンへの批判の元となっている重要な発見をしている(LMポーテンシーなど)のである。

1833年、ハーネマンはBoenninghausen宛に以下のように書いている。

数多くのダブル・レメディー(コンビネーションのこと)を試した結果、1つか2つしか成功例がなく、これは新しいルールの確立には不十分である。これは非常に疑わしく、かつ難しい方法の様である。数回試して僅か1回か2回しかうまくいかない程度の方法は、新しい理論として提示するには不十分である。

プラクティカル・ホメオパシーはいつから始まったのかという疑問をよく耳にする。
こういう話題を出すと、
プラクティカル=ポリファーマシー(=コンビネーション)ではないという人もいるだろうが、少なくとも、ポリファーマシーはハーネマンの時代からその芽が出ていた。

1865年には、Lutzeという人物が、コンビネーションのアイデアを導入した偽造版オルガノン第6版を出版しており、多くの人の勘違いの源になった可能性がある。
(英国The Society of Homeopathsの重鎮であり、英国ホメオパシー界のご意見番ともいえるFrancis Treuherz氏が、この本を所有している。私は師Nick経由でこの事を知った。)

「ハーネマンが行っていたから」「ハーネマンだったらこうしていただろう」
これは、プラクティカル、クラシカルを問わず多くの人が言う。

OK!そうかもしれないね。
でも、そうした事の多くは、ハーネマンが150年以上前に既に実験しているんですよ!

偉大なる勘違いは、クラシカル・ホメオパシーとは、

「ただ1粒飲ませて、じぃ~と待つだけのもの」だという考えである。

妄想と言っても良いかもしれない。
ハーネマンは、レメディを頻繁に変えたりもした。マヤズムに取り組んだりもした。ケントでさえ、そういう事を示唆した。
それがプラクティカルを意味するものではない。
ハーネマニアン(=クラシカル)のホメオパスに聞いてみるといい。

今の人は、対症療法の薬などで症状が抑圧されていて、より「プラクティカル(実践的)な」方法が求められると言うが(p5上段)、それは即座にポリファーマシーを求められている事を意味するものではなかろう。

時代背景が違うと言うが、レメディの時代背景も違っている。
ハーネマンの時代では、今ほど数多くのレメディが発見されていなかった。
現在よりも相当限定された数のレメディで、多くの症例に対応しなければならなかった当時とは、全く違う状況になっている。

私はここで、コンビネーションが効かないとか、意味がないとか、そういうことを言いたいのではない。

そうではなくて、由井氏が、自らの経験と研究に基づいて、コンビネーションが有効であると確信するなら、これほど回りくどくハーネマンを引き合いに出す必要はなく、ストレートにそう主張すれば良いのである。
史実と異なる話でこじつけるのは、醜悪というものだ。

由井氏が協力し合っていると言うホメオパスの1人、ストットラーという人(P3下段)は、クラシカル・ホメオパス(ハーネマニアン)だそうである。
クラシカルは終わっているような言い方をしている人が、クラシカル・ホメオパスの教えに感銘を受け、協力し合っているという。
柔軟な姿勢とも思うが、発言が矛盾している。

由井氏はクラシカルの本も幾つか翻訳出版している(ジャン・ショートン等)。
こういった柔軟性を私は評価するものの、著者であるクラシカル・ホメオパスを友人だと公言する彼女が、その人の業績を否定するような事を書くのは非常に理解に苦しむ。

由井氏の日本ホメオパシーにおける功績は大きい。
しかし、少々暴走している部分も多い。

今回のOrganonのまえがきの様に、かなりこじつけとも言える論調で他流派を批判することは、日本語での文献等、情報が不足している状況で、人々の認識にバイアスをかける事になる。
残念ながら、これはホメオパシーそのものを、そしてハーネマンをも貶める行為であろうと思う。

ひょっとしたら、彼女は、日本におけるプラクティカル・ホメオパシーを守るべく、孤軍奮闘している気持ちなのかもしれないなぁと、思う時がある。

しかし進む方向が違っているのでは?

本当に気を付けなければいけないのは、
レメディが効くとか、西洋医学的な薬害がないからという理由だけで、
ホメオパシーを全くホメオパシー的でない方法で、深い理解や研究なしに、
都合良く利用しているだけの「Pseudo-homeopath(いかさまホメオパス)」であるハズである。

(これについては、別の機会に語りたい)
本当は協力し合えるであろう人たちが、争い合っているのを見るのは、実に残念なことである。

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ホメオパシーの原理7-2

【ヘリングの法則は“法則”ではない】
前の記事で、ヘリングの法則として知られている治癒の方向性(Direction of Cure)について書きました。
ヘリングの法則は、ホメオパシーの学校では恐らくどこでも教えている、いわばグローバル・スタンダードだと思いますし、一種の常識として捉えられていると思います。しかしながら、この法則が何故ヘリングの法則と言われるようになったかについて詳しく教えられる機会も少ないと思いますし、常識であるが故に「本当にそうなのか?」ということを徹底的に問うという作業を行うことも案外少ないのではないでしょうか?

最近、私が多くの刺激を受けている「THE METHOD Lectures on Pure Classical Homeopathy」という本があります。この本は、Andre Saine(アンドレ・セイン)というカナダ人ホメオパスのレクチャーをまとめたものです。
この中でセインは、有名なヘリングの法則の歴史的背景について解説し、そして「ヘリングの法則は“法則(Law)”ではない」と述べています。
面白い内容だと思いますので、今回ご紹介します。

なぜヘリングの法則は法則ではないのでしょう?
まずは法則に例外はあってはならないということです。
実際のケースでは、ヘリングの法則に当てはまらない場合が多いですが、類似の法則(Law of Similar)は、例外がありません。従って類似の法則は“法則”であるが、ヘリングの法則は、「ヘリングのルール」とでもするべきかもしれません。ルールには例外があり得るのです。

歴史的な背景を辿れば、ヘリングがこれらについて最初に述べたのは、ハーネマンの「Chronic Diseases」のアメリカ版の第一版の序文においてだそうです。
ここでヘリングは何と述べたのか?彼は「Law of order」という言葉を使っているのです。実際へリングは「Hering’s Law」と自分で言ったことはないそうです。
ヘリングの述べたLaw of orderとは要約すると、「病気は外から内に進行し、治癒は内から外に向かって起きる。痛み(Pain)は上から下へ、症状は現れた順番と逆に消えていく。」ということです。
ハーネマンは、「Chronic Diseases」で、これと似たようなことを述べています。
「Anti-psoricレメディによる、性病に起因しない(つまりPsoric)慢性病の治癒においては、常に最後の症状が最初に消える。」
しかしハーネマンは、「痛みは上から下へ」と言ったことはありませんし、現在のヘリングの法則とも異なっています。「痛み」はどこかに行ってしまったんですね(笑)。

セインは、「ヘリングがけしからん」と言っているわけではありません。むしろヘリングの精神を賞賛しています。
ヘリングの物事に対する姿勢とは、「人生を通じての私のルールは、科学の領域で数学的な証明に限りなく接近するまでは、いかなるものも真実として認めない」「あらゆる理論や仮説に明確な重要性は全く無く、ただ新しい経験を導き、既存の理論や仮説についてのより良い概観を提供するに過ぎない」というものでした。こういった姿勢が、彼を偉大なホメオパスにしたのだとセインは言います。

ヘリングは、「Chronic Diseases」の序文(1845年)から、1865年まで、英語では(英語の文献では、もしくは英語圏ではという意味だと思います)Law of orderないしはLaw of cureについて更には述べておらず、1857年に出版された本と、1865年に発表された論文で、「症状は現れた順番と逆に消えていく」ということを述べているだけです。恐らく彼は、長年にわたるホメオパシーの経験からLaw of orderというLawは無いということに気付いたのでしょう。
ヘリングは、経験によりハーネマンと同じ洞察に至ったというのが、セインの見解です。

結局、ヘリングの生前には、「ヘリングの法則」という言葉は無かったのです。
ではいつからこの用語は使われ出したのでしょうか?

1911年、ケント(Kent)はある論文を発表しました。ここでケントは、「ヘリングが最初にLaw of Direction of Symptomsを導入した」と述べています。
犯人はケント。ケントが最初に「ヘリングの法則」を導入した人だったのです。
ケントは1900年のレクチャーでは、ヘリングの法則という言葉は使っていませんでした。しかしその後のホメオパシー学校の試験問題に、「Directions of Cureとは何か?」という問題があったそうです。つまり1900年から1911年の間のどこかで、ケントはヘリングの法則という概念を導入したであろうと考えられるのです。
「ケントはとてもいい仕事をしたけれども、長い間多くの人を誤った方向に導いた」とセインは批判しています。(他にもケントについて興味深い部分があるのですが、違う話題なので別の機会に)

実用的な目的のために我々が行う必要があるのは、プラクティスにおいて、いかにしてDirection of Cureを適切に使うかを探ることであるとセインは言います。
セインの解釈は、

  治癒の方向性の「ルール」とは、「症状は現れた順番と逆に消えていく」であり、それらの症状は「The reversible and presenting symptoms of the disease(可逆性があり、今現れている病気の症状)」である。

      症状とは、病気の症状であって、Wrong way of living(間違った生活、生活習慣)による症状は、治癒の方向性に従わない。

      他の3つの方向性はさほど重要でなく、二次的である。

ということです。やっぱり「法則」ではなくて「ルール」だと言っているのですね。
Richard Moskowitzも、「症状は現れた順番と逆に消えていく」という方向性が、一番信頼出来て重要であり、他の3つはシンプルなだけに、曖昧でトリッキーだと言っています。[‘Resonance’]

セインの結論は、「実用的な観点からすると、Direction of Cure(上記のルールとしての)を使うことは重要である。これはハーネマンの観察から生まれた。そしてホメオパシー的な治癒にのみ適用可能である。あなたは全てのケースにおいて、このルールがうまく機能するか試してみることが出来るだろう。」
つまり答えは、自分で経験から得るしかないのだと言っており、ハーネマンやヘリングのような、純粋な観察(Pure observation)から洞察を得るようにしなければならないということなのです。

私にとってこの本は、常識を問い直し、歴史に学び、そして自分で考えるという作業の大切さを再認識させてくれたものです。
大変発見の多い本で、オススメです。何だか書評みたいになって来ましたが、残念ながら普通の本屋さんでは売っていません・・・。
ちなみにもう1冊「Psychiatric Patients - Hahnemann and Psychological Cases, Lectures on Pure Classical Homeopathy」というのも、一部内容が重複しますが良い本です。2冊のシリーズで、こちらが「1」です。

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ホメオパシーの原理7

【治癒の方向性 Direction of Cure】
理想的な治癒のプロセスとはどのようなものでしょうか?
治療は、レメディを選んで、飲んでもらったらそれで終わりではありません。レメディによる患者さんの反応を確認して、レメディが適切か?ポーテンシーは適切か?等、様々な要素を考慮して、患者さんが治癒の方向に向かっているかを観察しなくてはなりません。
このためのガイドラインが、「Direction of Cure(治癒の方向性)」、ホメオパスの間では一般的に「Law of Cure(治癒の法則)」とか「Hering’s Law(ヘリングの法則)」と呼ばれるものです。

Direction of Cureとは、症状群がどの様に消えていくか、つまり治癒して行く傾向にあるかを示したものです。以下の4つです。
  1.上から下へ
  2.内側から外側へ
  3.より重要な臓器から、そうでない臓器へ
  4.症状が現れた順序と逆の順序で消えていく(新しいものが先に消える)

これらは厳密にこの通りでなければならないという訳ではありません。
別の言い方をすると、必ずしもこの通りにはなりません。
学校のクラスで、あるいは患者さんのケースを前にして、Law of Cure ないしはHering’s Lawを並べて、個々のケースがこれらのどれに当てはまるか?という作業を始めると、しばしば混乱することになります。どうしてもどれかに当てはめようとすると、うまくいかない時がある(ように見える)のですよ~(苦笑)
これらはシンプルなガイドラインです。しかし現実には患者さん個々の状態、体質、環境よって様々な改善、好転反応、悪化が起き、大変複雑です。
従って、患者さんの状態を注意深く観察して、治癒の方向性に沿っているかどうかを判断しなければなりません。

最初の3つは、いくらか解剖学的であり、「空間」における方向性を示したものと言えそうです。基本的には、治癒が進むにつれ、病気は生命中枢(Vital centre)から、重要度の低い場所に移って行く傾向にあるということを示しています。
この観点から、2番目と3番目が区別されているのは便宜的な理由に過ぎず、実際には殆ど同じと言えるでしょう。ホメオパシーの治癒されるべき場所には、臓器だけでなく、心、魂、精神、感情といった場所も含まれるからです。つまり内から外へというのは、心から身体へという方向性も示していますが、同時に、重要な臓器は比較的内側にあるものです。
また、どの臓器や機能が事実上の核心なのか、あるいは重要なのかというのは、やはり患者さんの症状や状態によって様々です。
ですから、あまり杓子定規に捉えずに、常に「What is to be cured?」という観点に戻らなければなりません。この「場所」が、治癒のプロセスにおける生命中枢なのだと思います。

4番目は、時間的な方向性を示したもので、「時系列的・自伝的」なパターンです。
症状が新しいものから順に消えていくというのは、一連の症状や状態に至る過程(病気の進行)を逆に辿るということであり、病気の状態がどの様な過程で作られたかについての貴重な洞察を提供してくれます。
この方向性は、比較的長期の時系列を逆に辿るという過程においては、しばしば昔患った古い症状が再度現れるということを示唆しています。現在の症状群が消えた後に、過去の症状が一時悪化して消えていくといった形で逆行するわけです。これは好転反応の一種ですが、今現れている症状に好転反応が起きるという現象と区別して、「Return of Old Symptoms」、「Disease Replay」などと呼ばれます。過去の症状の再体験ということです。

注意しなければならないのは、過去の症状の再体験は、全ての症状を必ず再体験するとは限らないということと、必ずしも起きた順序と全く逆の順序で現れるとは限らないということです。再体験として現れやすいのは、特に過去に患った時点で治癒せずに、単に抑圧された(suppressed)ものが多いと言われています。また、局所的な症状で、昔から状態が変化しないまま持ち続けている(現在の症状でありながら、発症時点は古い症状)ものは、(最も古い症状と共に)最後に消える症状とされています。

4番目の方向性もまた、どの「場所(時点)」が治癒の中枢なのかを観察するガイドラインであり、結局、治癒の方向性とは、4つを統合して、つまり「空間」と「時間」をセットにして観察しなければならないということなのでしょうね。

【参考文献】
 ‘Organon of the Medical Art,’ by Samuel Hahnemann, edited and annotated by Wenda Brewster O’reilly
  ‘Chronic Diseases,’ by Samuel Hahnemann
 ‘Resonance,’ by Richard Moskowitz
  ‘THE METHOD Lectures on Pure Classical Homeopathy,’ by Andre Saine
  ‘Hahnemann Revisited,’ Luc De Schepper

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ホメオパシーの原理6

【Single RemedyとMinimum Dose】
ハーネマンが確立した薬の投与の原則は、1度に1種類のレメディを使い、患者さんを治癒するのに最小限の量を投与するというものです。
現在では、このハーネマンの手法を踏襲するシステムを「Classical Homeopathy(クラシカル・ホメオパシー)」と言います。また、現代の人々は、ハーネマンの時代の人々とは環境が違うという理由から、ハーネマンの手法だけでは不十分だとして、ハーネマンの手法に加え、1度に数種類ものレメディを投与したり、コンビネーション・レメディと呼ばれる2種類以上のレメディを混合したレメディを処方するシステムもあります。これを「Practical Homeopathy(プラクティカル・ホメオパシー)」と言います。また特に、コンビネーション・レメディや多種のレメディを同時使用する手法を、「Polypharmacy(ポリファーマシー)」と言います。

どちらがより有効か?というのは、色々と議論がありますし、どこからどこまでがクラシカルなのかという境界もハッキリしませんが、私が勉強しているのはクラシカルなので、プラクティカルについて殆ど語る事は出来ません。個人的には、どうしてもクラシカルでなければいけないという考えに固執してはいないので、機会があれば勉強してみたいと思っているのですが、残念ながらホメオパシーの本場・英国でも、プラクティカルについて書かれた書籍は、殆ど見当たりません。マテリア・メディカも、個別のレメディについて記載されていますから、コンビネーションの効果や、1度に数種類のレメディを処方する方法論について、文献から調べる事が出来ません。他の国に行くか、プラクティカルの学校に入学するしか無いのでしょうかね(残念ながら、そんなにお金がありません・・・)。余談ですが、最近、漢方薬をホメオパシーの様に希釈して利用し、通常の漢方薬より効果があったという面白い研究もあるようですね。私は、プラクティカルと聞くと、この漢方薬の話をつい思い浮かべてしまいます。面白いですよね!

さて、ハーネマンが確立したシングル・レメディという手法は、彼がホメオパシーを体系化した過程を考えれば、容易に理解できるでしょう。
基本的にホメオパシーのレメディは、ある特定の症状だけをターゲットにしているのではなく、症状の集合体としての「病気の人」を治すのです。レメディは、似たものが似たものを治すという法則を基に、症状の集合体としてその効果を検証されていますから、1つのレメディがある人全体を治癒することが出来るのであれば、複数のレメディは必要ないという事になります。逆に言うと、そういった効果が得られない場合は、レメディはその患者さんに適当でないと考えます。
ある人の本質的な全体像、つまり心も含めた「体質」のようなものを根本体質(Constitution)と言い、それに対応するレメディを根本体質レメディ(Constitutional remedy)と言いますが、根本体質レメディによって患者さんが健康状態になる、すなわち体質あるいは全体的な状態が改善されれば、環境からの様々な干渉・影響に対しても一定の抵抗力を持つであろうと考えており、クラシカルは(恐らくはプラクティカルも)、常にこの根本体質レメディを探そうとしているワケです。

個人的には、「出来れば1つのレメディで」と思いますが、人間は、ただ一時も同じ状態にいない存在だと思いますし、アクシデント、加齢、環境といった様々な要素が我々の状態に作用しますから、生涯1つのレメディで済むというワケにはいかないと思います。
また、その存在の核心に、つまりその人全体に作用するレメディにたどり着くまでに、たまねぎの皮を剥くように、1つ1つ削ぎ落として行くといったやり方になってしまう場合もあろうかと思います。
ちなみに、こういうのをLayered caseと呼んだりもするようですが、私は「結果的にLayerになった処方(method)」と勝手に呼んでいます。急性病を無理やり薬等で押さえ込んだり、トラウマ的な事故を精神的にうまく克服できなかったり、あるいは生活習慣が好ましくなかったりすると、それが慢性病の下地になったり、元々の慢性体質を更に複雑にしたりします。つまり層が出来てしまう場合があると考えられます。人生に幾つか転機があって、その都度(良くも悪くも)変わっていったというのと同じ考えです、こういった場合、その層によって根本体質が見えにくくなっていたり、根本体質に対応するレメディが作用するのを妨げていたりします。従って、生活習慣等の外的要因を取り除くと共に、必要があればその新しい層に対して特定のレメディが必要になる時があるでしょう。
人間を理解するというのは簡単ではないですから、クラシカル・ホメオパシーも、「たった1つしかレメディを使わない」ということに固執している訳ではなく、変化する存在としての人間に対して、柔軟に対応しようとしています。但し、同時に2つ以上のレメディを使うということは殆どありません。
ホメオパシーの学校では、どこでも必ず「What is to be cured?」ということが語られます。クラシカルの学校では、刻一刻変化する存在の、その「What」に対して1つのレメディが対応すべきと考えているのです。
従って急性病(Acute)の場合、プラクティカルの様な処方になる事はあり得ます。つまり、1日のうちに2種類以上のレメディを投与する可能性はあるのです。しかし、この場合も、最初から意図的に数種類投与するのではなく、1つ投与して様子を見て、適切なレメディと判断したら、そこで終わりですが、場合によってはリピートしますし、そのレメディが適切でないと判断したら、別のレメディを投与します。極めて短時間のインターバルで、慢性病の治療と同じ様なプロセスをとるわけです。

ハーネマンは、色々な方法、レメディの投与回数、投与間隔、複数のレメディをどの順番で処方するか等を実験したようです。彼は結局、Organonを第6版まで出版しました。その中で彼がたどり着いたのは、「レメディの投与量は最小限にせよ」という事でした。
ハーネマンの生涯について書かれた文献を読むと、彼が、どうすれば効果的な治癒を実現できるかを試行錯誤した形跡が見られます。彼は常に、現状に満足することなく、ホメオパシーを進化させていました。
その中でポーテンタイゼーションという方法も発見されましたが、これにより活性化されたレメディは、しばしば患者さんに症状の悪化をもたらしました。これは東洋医学で言う好転反応(メンケン)と同じものであり、短期間で消えてその後改善に向かいますが、人によってはかなり激しい状態もあり、患者さんにとってはつらいことが多いものです。ハーネマンは、これはポーテンシーが高すぎるのが原因であることを突き止めました。「ホメオパシーの原理3」でも説明したように、希釈振盪が進めば進むほどレメディの効力は強くなります。しかし、患者さんのレメディに対する感受性(Susceptibility)や生命力の強さ(ヴァイタル・フォースの強さ)等、その時の状態に対して、強すぎるレメディ=高すぎるポーテンシーは、強い好転反応、つまり一時的な悪化(これをアグラベーション=Aggravationと言います)をもたらすことが多いのです。
高すぎるポーテンシーによる好転反応は、一時的とはいえかなり激しい場合があるため、患者さんにとって、また治療計画を考えるホメオパスにとっても、頭の痛い問題になり得ます。ハーネマンは、最も理想的な治癒は、迅速かつ、穏やかで、永続的なものであると唱えた人ですから、激しい悪化は、必要な過程であったとしても、彼にとっては満足の行くものではなかったのでしょう。最終的には、患者さんの特徴を考慮して、好転反応を最小限にするような処方をすべきと結論付けています。

ちなみに日本の書籍で、クラシカル・ホメオパシーは、レメディをリピートしないといった記載がありますが、これは誤りだと思いますし、高いポーテンシーのみを使うというのも間違いです。(私の持っている本は旧版なので、改訂されていたらごめんなさい)こういう流派を「Kentian(ケンティアン)」として分類すべきと思います。人によって分類方法が違うでしょうけど、クラシカルがリピートをしないとか、低いポーテンシーを使わないというのは、少なくとも現時点では明らかな誤りです。
また同書に、「ハーネマンは、最終的に低いポーテンシーでリピートするのが最善だという結論に達した」という記述もありますが、これは正確には、患者さんのヴァイタル・フォースの状態を考慮した上で、病気のパワーよりも少しだけ高いポーテンシーを使えということです。ハーネマンの教えは、ポーテンシーやリピート回数というのは、それぞれの患者さんに応じて選択されるものであって、純粋な実験と的確な経験そして慎重な観察によってのみ、適切な投与量を判断できるということなのです。
この本のイギリス派のプラクティカルについての該当箇所を読むと、コンビネーションの使用以外のところは、なんと私が勉強しているクラシカルについて書かれているんじゃないかと思えてしまいます!まあイギリス派といえば、そうか(笑)

【ホメオパシー流デトックス?】
環境汚染、食品添加物、精神的な影響(ストレス等)、その他人間に干渉するものが、現代ではハーネマンの時代とは比較にならないから、1つのレメディだけでは解決しないというのが、プラクティカルの主張です。そうかもしれません。これらの影響は深刻だと私も思います。
しかし私の疑問は、同時に何種類ものレメディを投与する必要があるのだろうかという点です。ある患者さんに干渉している(干渉という表現は適当でないかもしれませんが)ものを厳密に取り除くために、いくつものレメディが必要で、それを投与する必要があるというのであれば、干渉しているもの1つ1つが何であるかが分かっているという前提でしょう。であるならば、まずそれに対応するレメディを1つ投与するという事ではダメなのか?少なくとも同時にいくつものレメディを使う必要は無いのではないかと思います。
とはいえ、レメディを使ってDetoxification(解毒)が出来れば、治癒の妨げになっているものが解消される可能性がありますよね。
恐らくプラクティカルのテキストには、この辺のヒミツが書かれているのではないかと想像すると、ドキドキしてしまうのですが(笑)
そもそもレメディは、病理学的な因果関係=個々の病気の原因と結果に対して作用するのではありませんから、もし何らか干渉しているものが判明しても、それをどのレメディによって取り除くのか、方法論が明確ではありません。なるほど、セラピューティック(Therapeutic)という考え方は、クラシカルでもあります。しかし、これは主に急性病に対しての手法であり、しかもその際も、急性病であるがゆえに、今その瞬間、患者さんを支配している急性症状の全体像に対してレメディを処方します。他の症状がたくさん見られるのに、ある1つの症状をターゲットにするという事は考えられません。
またマテリア・メディカに「水銀の害を取り除く」といった記述のあるレメディもありますが、そのためだけに使えるものなのか・・・?またその目的だけにたくさんレメディを飲んで、他に影響は無いのか?この辺は、プラクティカルの世界では明確なのかな?
とりあえず私は最近、大森隆史氏のデトックス理論の本を読んで、氏の薦める「アルファ・デトックス」というサプリメントを飲み始めてみました。

【参考文献】
 ‘Organon of the Medical Art,’ by Samuel Hahnemann, edited and annotated by Wenda Brewster O’reilly
  ‘Impossible Cure,’ by Amy L. Lansky
  ‘Yasgur’s Homeopathic Dictionary and Holistic Health Reference,’ by Jay Yasgur
 ‘In Search of the Later Hahnemann,’ by Rima Handley
 ‘ホメオパシー Homoeopathy in Japan’ by 由井寅子

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ホメオパシーの原理5

【Disease is the non-human part of man】
Sankaranというインドの著名なホメオパスは、「病気とは人間の中の非人間的な部分(non-human part of man)であり、治癒とは気付き(Awareness)である」と言っています。
健康であるという状態が本来の人間の姿であるとしたら、病気とは自己の中に芽生えた「非人間的なもの」であると言えるでしょう。その非人間的な部分というのは、地球を共有している人間以外の存在-植物界、鉱物界、動物界のいずれかに属するもの(ホメオパシーでは、これらの分類をKingdomと呼んでおり、それぞれPlant kingdom、Mineral kingdom、Animal kingdomとしています)であり、ヒトの中心部分(あるいはエネルギーや存在といっても良いでしょう)が、それらのエネルギー・パターンに影響される=似てしまった状態が病気であると説明しています。
病気の状態とは、自然界のあるスピリット(Spirit)が人間存在の中に現れた状態であろうとSankaranは言います。まさしくある人の魂の中で、別の歌が人間生来の歌と一緒に歌われているかのようだと。
「人間の歌(Human song)」は大きな音で、「非人間的な歌(Non-human song)」は、流れていたとしても時々微かに聞こえるだけであり、それらは感覚(Sensation)や、夢、動作、特徴的な症状を通して微かに認識できると表現しています。ヒトはある程度、非人間的な歌とハーモニーを奏でる事が出来ますし、時にその人の主旋律になる場合もありますが、このハーモニーが乱れた時、病気になります。それはまるで、他の物質のスピリットあるいは生命がヒトの中に入り込んで、病態や経験、行動、言葉、夢、職業の選択等を通じて歌っているかの様です。ヒトはヒトとして存在しつつも、非人間的な部分も同時に表出し、それが混乱(=病気)をもたらします。そして我々は、この非人間的な歌を認識し、ひとたびそれが何であるかを知れば(Awareness)、隠れた歌やメロディをトーンダウンする事が出来ますが、それに気付くことが出来ない人は、その乱れたハーモニーの中に居続けてしまいます。[Rajan Sankaran, ‘The Sensation in Homeopathy’]

人間の中には、元々自然界の色々な要素が包含されているのだと思います。人間も自然の一部に過ぎないからです。生物学的には、遺伝子もタンパク質も特定の種に固有のものは殆ど無いといいます。細菌からヒトに至るまで、類似の構成要素から成っています。更に元素のレベルで考えれば、地球上のいかなる物質も、結局は陽子・中性子・電子の組み合わせから成っています。もっと小さい単位もあるようですけれど、100以上ある元素も結局は数種類の素粒子の結合でしかないのです。何らか理由があって、もしかしたら理由なんて無いのかもしれませんが、各構成単位が組み合わさって金や水素になる。そしてその構成を支えているのがエネルギーであり、生命組織においてはヴァイタル・フォースです。
健康になるとは、ヴァイタル・フォースが「人間の歌」特有のエネルギー・パターンに回復することです。このためには「非人間的な歌」を認識することによって、ヴァイタル・フォースが目覚め、自ら調和の取れた状態に戻るために、自分の歌がどういう歌だったかを思い出させてやるということです。この「気付き」を得られた時、その時から本当の、そして自然な治癒というものが始まるのでしょう。

従って、健康になるためには、必ずしもレメディでなければいけないということでは無くて、それが起こるのは、日常のふとしたある時、例えば入浴中だったり、生活習慣を変えた結果だったり、セッションの最中だったり、ヨガのエクササイズをした後だったり、針治療を受けた時だったり・・・色々な事、場面があり得ますし、無意識の状態でも起こり得るでしょう。
ホメオパシーのレメディは、「ここにあるよー!」と“似たもの”で示すことによって、その気付きを助けてくれるものとも言えます。結局、ホメオパスや医者が病気を治すのではなく、人間は自分で治るのです。ホメオパスやレメディはその手助けをしているに過ぎません。

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ホメオパシーの原理4

【Vital force(生命力)】
「病気があるのではなく、病気の人がいる」というのが、ホメオパシーの考え方です。厳密には、病気という「実在」があるのではなくて、病気という「状態」になっている、言い換えると「健康でない状態」になっている人がいるという考え方です。病気の状態であるというのは、何らかの影響によって起こった状態の変化を表現しているに過ぎません。
ハーネマンは、人間には何か目に見えない自然の摂理、すなわち生命力の様なものが働いていて、我々の身体を管理・統合しているのだと考えました。それがハーネマンの言うヴァイタル・フォース(Vital force)です。本によっては、Life forceとかLife principle、Dynamis、Life energy等と表現されています。どうやらOrganon第6版の原典によれば、彼はLife principleという表現を多用したようですが、少なくとも英国ではヴァイタル・フォース(Vital force)という言い方が一般的ですので、以降これにならいます。(スター・ウォーズを思い浮かべた人、マニアですね(笑)エピソード3は観ましたか?「フォース」と考え方、似ています)
ヴァイタル・フォースは、Spirit-likeつまり魂のような存在であり、物質的な組織のみならず感覚や感情といった生命活動の全てを統合・維持しています。生命力の無い身体は機能を維持出来ず、やがて朽ち果てていくということは、誰でも容易に想像できます。死んだ直後の人の身体とその前とで、何が違うのでしょうか?死んだ身体と生きている身体は、物質的には同じでも、明らかに何かが違うのです。この何か、生きている身体から抜け出ていった目に見えない非物質的なもの、それこそが生命力であり、東洋医学的には「氣」であるとも言えるでしょう。
自然や生命の微妙でダイナミックな美しいハーモニーを創造しているのが、ヴァイタル・フォースなのです。
このヴァイタル・フォースのハーモニーが何かの原因で乱れると、病気の状態になります。ホメオパシーで言う「病気」とは、ヴァイタル・フォースの乱れ、生命力の調和の乱れを指すのです。

では、我々は病気の状態をどのようにして知るのでしょう?
ヴァイタル・フォースは、目に見えません。我々は、生命活動がダイナミックに維持されている、つまり健康・病気を問わず、生きていることを認識する事によってのみ、その存在を確認できます。外部から本質的に影響を受けるのがヴァイタル・フォースであるならば、それを感じるのもヴァイタル・フォースです。そして、生命を統合・維持しているヴァイタル・フォースのみが、“統合・維持するために”その乱れを心や身体を通して表現するのです。これが病気の症状です。症状は生命力の表現であり、「何かが起きているよ」というヴァイタル・フォースの声なのです。
そして、症状が精神的・身体的にどのようにして表現されているか、その全体像がすなわちヴァイタル・フォースの乱れであり、「病気の状態」なのです。
ホメオパシーが、「病名」ではなく、その人に現れた症状1つ1つを観察するのは、このヴァイタル・フォースの訴えを聞く事にあります。そして、ヴァイタル・フォースに対して、そういった状態を引き起こす事が出来るレメディ=似たものが、調和をもたらすのです。
もしかしたら、高度にスピリチュアルな人は、自分や他人のヴァイタル・フォースから直接その乱れを「聞く」ことが出来るのかもしれませんね。
ハーネマンはこの辺は現実主義(?)で、生命を司る何かを感じ取りながらも、しかし、それは見ることは出来ず、どんなに優れた観察者であっても、病気の兆候や症状、状態の変化等を通してのみでしか、その存在を確認する事は出来ないと言っています。乱暴な言い方をすれば、ヴァイタル・フォースがあるかないかを、必死になって探すのは時間の無駄だから、そんなことより、患者さんをじっくり観察して、その状態に合ったレメディを探す事を考えろということなのです。

「症状の全体像」と何度も述べました。
現れた症状や状態の変化等は、ヴァイタル・フォースが心や身体を通して示した、生命力の乱れです。症状の1つ1つは、我々の内面的な本質を目に見える形で投影したものです。1つ1つが独立した別個のものではなくて、集合体としてヴァイタル・フォースの乱れを表現しています。中心=ヴァイタル・フォースから外側=心・身体に放射状に症状が広がっていく様を思い浮かべて頂ければと思います。症状の方から中心に逆に戻れば、1つ=ヴァイタル・フォースに収束されます。つまり1つまたはいくつかの症状で1つの病気・病名なのではなく、症状の複合体として「病気の状態」なのです。(ホメオパシーでは、これを「Totality of symptoms=症状の全体性ないしは全体像」と呼んでいます)
従って、ホメオパスはいわゆる「病名」というのをつけません。病名を付けられた症状を手掛かりにはしますが、病名=レメディではないのです。セッションを受けて、「先生、私はどういう病気なんでしょうか?」と聞いても、「病気?あなたはあなたです」といった答えしか得られないでしょう(笑)

ヴァイタル・フォースが症状として表現する場所は、心や身体といった生命組織としてのあらゆる場所ですが、人によってその現れる場所は様々です。
心にせよ身体にせよ、症状はその人の弱い部分に現れます。弱い部分というのは、文字通りの「弱い」という意味では必ずしも無く、体質や性格の特徴・傾向を指します。「敏感な」と言った方が良いかもしれませんね。
またスギ花粉を吸い込んでも、花粉症になる人とならない人がいるように、ヴァイタル・フォースが外部から受ける影響の種類・度合は、人それぞれです。症状による表現というのは、ヴァイタル・フォースのダーク・サイド、つまり弱い面ですが、健康な時の精神的・身体的な特徴・傾向もまたヴァイタル・フォースの表現であり、それら全てをひっくるめて、その人の個性=ヴァイタル・フォースの個性です。
そして特に、体質的、性格的な弱さ、あるいは影響の受け易さといった、その人独特のパターンを、「疾病素因(Predisposition、プリディスポジション)」と言います。
このようにホメオパシーでは、個人個人が(ヴァイタル・フォースが見えようが見えまいが)様々な特徴を持ったUniqueな存在であると考え、治療においてはその人の特徴・個性は何か?という個別化を前提としているのです。

【参考文献】
 ‘Organon of the Medical Art,’ by Samuel Hahnemann, edited and annotated by Wenda Brewster O’reilly
  ‘Impossible Cure,’ by Amy L. Lansky
  ‘Yasgur’s Homeopathic Dictionary and Holistic Health Reference,’ by Jay Yasgur

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ホメオパシーの原理3

【Potentization(ポーテンタイゼーション)】
当初、プルーヴィングを行い治療に使い始めた物質は、毒性の強いものが多かったため、ハーネマンは患者さんへの投与に非常に苦労しました。
最終的には治っても、その過程でかなり著しい悪化が見られたようです。
ハーネマンは、薬物を薄めて使ってみました。相当薄めても効果は変わりませんでした。偉大な実験者であった彼は、段々と希釈を進めて行き、ついには元の物質の分子が1つも残らない程の希釈率(アボガドロ定数倍以上)に到達し、しかも希釈すればする程効力が増していく事を発見したのでした。
そしてこの発見で重要な点は、効力を増すためには、希釈の度に溶液の入った容器を何回も強く振る、あるいは叩きつける事が必要だという事だったのです。これをSuccussion(サーカッション=振盪)と言います。ただ薄めただけでは、レメディとしての治癒力を持ちません。
「希釈+振盪=ポーテンタイズ(Potentize)」による手続きが「ポーテンタイゼーション(Potentization)」であり、その結果得られたレメディのパワーを、希釈率によって表示したものを「Potency(ポーテンシー)」と言います。
薄めても効果があるどころか、薄めるほど効力が増すのはなぜなのでしょうか?
現在まで、このメカニズムははっきりとは分かっていません。この問題は、ホメオパシーに懐疑的な現代医学(Conventional medicine)の医師や科学者たちが、ホメオパシーを糾弾する拠り所となっています。
しかし、ホメオパシーを体験した人は、レメディが治癒力を持つということを知っています。私自身も、レメディの効果を何度も体験しました。
因果関係やメカニズムがハッキリと分からなくても、その効果や現象を元に実用化されているモノ・技術はたくさんありますよね。現代医学の薬も、ある疾患に用いるために実験をしていたら、偶然別の疾患に効果があることが分かったものや、目標の疾患に効果が認められたものの、実際に使われるようになってから副作用(別の効果)が見つかった等の例はたくさんあります。

懐疑論者による最も多い批判は、レメディによる治癒は、プラシーボ効果によるものだというものです。
しかし、プラシーボと比較した数多くの実験・調査で、レメディはプラシーボ薬を投与されたサンプルよりも明らかに効果があるという結果が出ています[Bill Gray著・’Homeopathy – Science or myth?’、Bellavite / Signorini共著・’The Emerging Science of Homeopathy’、Amy L. Lansky著・’Impossible Cure’等を参照。但し、これらの文献に引用されている調査は重複しているものがある]。もちろん効果なしと判定された実験も多くあります。二重盲険法と統計的手法を取り入れた近年の所謂科学的なこれらの調査は、しかし、ホメオパシーの大きな特徴である「個別化」をうまく反映出来ません。ホメオパシーではレメディは各人に合わせて処方するものですから、レメディが本当に調査対象になった人それぞれに効果があったかどうかは判定が(ホメオパシーのコンセプトからは)困難です。また、対象者1人1人個別に処方したとしても、それぞれの処方が適切でない可能性もあります。前掲の文献によれば、ある疾患に対してよく使われる特定のレメディを使う調査(つまり個別化は無視)、被験者個別に処方して行う調査、その他色々な方法で行われているようですが、こうした、ある意味不利な状況下の調査においても、レメディの有効性を支持する結果が数多く出ています。

動物や細胞を使った実験においても効果が確認されています。これらの対象は人間と違ってプラシーボ効果が出ないとされています。もっとも、植物にも感情があるという説もあるぐらいですから本当の所は分かりませんが、少なくとも“科学的には”プラシーボは無いとされていますね。
レメディやホメオパシーの効果がプラシーボだと言う人は、レメディによる治癒の過程として改善の前に起こる悪化・好転反応(Aggravation)を説明出来ません。患者さんが「良くなる」と信じ込んでレメディが効くと言うのなら、ただ好転するだけで良いはずで、悪化が起こるとは考えにくいでしょう。更に、ある状態・時点において、その人に特定のレメディが効いて、数多くある他のレメディは効かないというのが普通です。少なくとも、ある人がどのレメディを飲んでも同じ治癒効果が得られたという話を、私は聞いた事がありません。これはプラシーボ効果に反するものです。
意識の無い人の治癒例もありますし、生まれて間もない赤ちゃんにプラシーボ効果を期待出来るでしょうか?
歴史的にも、過去、ホメオパシーが一時衰退する(特にアメリカ、イギリスで)以前に、インフルエンザやコレラ等の伝染病に対して、ホメオパシーは良い治療成績を挙げていたのです。

ちょっと開き直ったように聞こえるかもしれませんが、プラシーボ効果は、それ自体素晴らしいことだと思いませんか?薬を使わないで病気が治るなら、最も安価で安全な治癒ですよね。完全に利用できるようになれば、医者や製薬会社、そしてホメオパスでさえも生活に困るでしょうけど・・・。
恐らくホメオパシーでは、レメディの効果とは別にプラシーボ効果を使っているのです。現代医学でもプラシーボ効果は、好むかどうかは別として認められています。二重盲険法が使われるという事は、説明のつかない現象が存在する、ないしは対象者の主観・意思が結果を左右することがあるという事実を認めています。しかし意図的に使いこなせるものではありませんし、残念ながらプラシーボ効果は長続きしない事で有名です。
ホメオパシーの場合、長時間のセッションを行いますので、ホメオパスと患者さんの関係やその場の雰囲気は、双方に何らか影響を与えるでしょう。人間同士ですから、「あの人と会うと気分が良くなって、自然に話が出来た」とか、逆に「あの人には、なんだか話しにくい」とか、様々なパターンが考えられますよね。前者の場合、ホメオパスはレメディを見つけるのが、より容易になるでしょうし、患者さんの状態にも良い効果をもたらしそうです。後者の場合は、関係の改善が必要か、場合によってはホメオパスを変える事も検討すべきかもしれません。しかし例えば、「あの人と話していると、かえって具合が悪くなってくる」なんていう時には、どういう風に具合が悪くなるのか?どういう気分になるか?その相手あるいは自分の何がそうさせているのか?別の状況で似たような経験があるか?等を考えてみてください。それこそが、レメディ選択の有力な手掛かりになる可能性があります。ホメオパスだけでなく患者の立場の人も、前向きに“プラシーボ”を活用しましょう!

患者さんがあるホメオパスに診てもらって効果が無かったという場合も、ホメオパシーの失敗ではありません。それはそのホメオパスの処方が適切でなかっただけです。
ケント(James Tyler Kent:1849~1916、ホメオパシーの巨人の1人。現代まで多くのホメオパスに影響を与えた)の時代でさえ、“医者から、ホメオパシーを検証してみたが、効果が認められなかったという話をされた”が、“失敗したときはいつも医者の失敗であって、法則の誤りでない”のであり、“彼らは、何を観察し、どうやってレメディを選択するかを知らない”と述べています。[‘Lectures on Homoeopathic Philosophy’]
創始者ハーネマンは、厳密な観察(Observation)を最重視した人です。そのハーネマン以来の伝統による人間や病気=自然現象の純粋な観察の積み上げによって、ホメオパシーは築き上げられています。実際に人間(自然)に起きた事だけが、ホメオパシーの拠り所であり、ポーテンタイゼーションも、そういった純粋な“体験”の1つなのです。

さて、ハーネマンが発見したポーテンタイゼーションという手法による、薄ければ薄いほど強力という効果は、「薬理効果は薬の量が多いほど高い」という現代医療とは、正反対の性質を持っています。この面では、使用する物質=材料が、現代医療の薬と比較して非常に少なくて済むというエコロジー効果があります。環境に優しいと言えるでしょう。しかし逆に、レメディの需要が増えても(ファーマシーの利益は増えるが)あまり大きなマーケットにはなりそうも無いので、ビジネスとしては今のところ旨みが少ない業界であると思われます。
また、ホメオパシーの1回当たりのセッションに掛かる費用は、日本では現在1万円~5万円程でしょうか。セッションの時間(1~2時間)を考慮しても、通常の保健医療に比べてえらく高いように見えますが、製薬会社等も含めた社会全体の医療コストという視点から考えて、1人当たりの生涯医療費を計算すると、ホメオパシーの方が割安かもしれませんよ。まあ現状比べようも無いんですけどね。購入する薬代は間違いなく減ると思います。
むしろこういった要素が、ホメオパシーが主流の医療にならなかった理由なのか?などと考えてしまったりもしますが、あまり金儲けにならない=ビジネスや政治の材料にならないというのは、本来の医療の目的からすれば良いことなのかもしれませんね。

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ホメオパシーの原理2

【プルーヴィング(Proving)】

ハーネマンは、最初にChinaを飲んだのと同じように、自分自身及び他の人たちの協力を得て、様々な物質の治癒効果を実験・確認しました。

ここにホメオパシーの重要な特徴があります。それは、人間に対して効果のあったものしかレメディとして使わないという事です。動物を対象にして得たものが人間にそのまま適用できるとは限りません。人体実験と言うと聞こえが悪いですが、ホメオパシーのレメディの効果は人間を対象として実験されます。

これをプルーヴィングと言いますが、たくさんの健康な人がレメディの対象となるものを飲んで、その反応を確認するのです。この人たちはプルーヴァー(Prover)と呼ばれますが、プルーヴァーたちは、対象となる物質をレメディの形(錠剤等)で飲んで、その反応を記録します。何がレメディによる反応で、何がそうでないのかを認識しなければならないので、プルーヴァーには、ある種の几帳面さと繊細さが要求されますね。そして、こうして得られたデータを集計して、レメディの効果を仮定します(ここまでがプルーヴィングです)。当然ながら、効率的に実施し、かつ信頼できるデータを得るために、様々な手法が考えられています。

レメディが真に治療に使える薬となるためには、更に、実際にプルーヴィングで得られたレメディの反応と似た病気を持つ人に飲んでもらって、その効果を確認しなければなりません。また、Andre Saineが指摘するように、プルーヴィングは病変の初期の状態しか引き起こせない場合が多いことから、そのレメディが、プルーヴィングで得られた症状以外の病変に効果があるのか100%は分からない事になります。つまり臨床で効果が検証されて来ていない新しいレメディ(実際、レメディの種類は増え続けています)は、当初はプルーヴィングから得られた情報から起こりうる病変を類推して使わざるを得ない事になるのです。従って、あるレメディの全体像=真の治癒力を知るには、臨床での結果も検証しなければなりません。

こうしてプルーヴィングから臨床を経て治癒効果を確認するということを際限なく検証して編纂されたものが、マテリア・メディカ(Materia Medica)と呼ばれるものです。マテリア・メディカには、レメディごとにその効果-どういう症状を引き起こせるか=治癒出来るか-が記述されています。

レメディの資料としてのマテリア・メディカとプルーヴィングは、区別されなければなりませんね。

プルーヴィングには、もう1つあります。

それはレメディの効果を調べるためではないもので、「結果としてプルーヴィングしてしまう」というものです。

これは、適切でないレメディを、適切でない飲み方で飲んだ時に起きる可能性があります。

ある人がレメディを飲んで、その人が今まで経験したことの無い症状(精神的または身体的に)が出てしまい、しかもそれが飲んだレメディが持っている症状である場合、その人はレメディをプルーヴィングした事になります。この場合、レメディが適切でなかった(充分に似ていなかった)ため、治癒ではなくプルーヴィングが起きてしまったのです。

ホメオパスとのセッションにおいては、実際にプルーヴィングであるか、それともその人の中で何かが変わったために、改善のプロセスとして付随的に起きてしまった事なのかを、ホメオパスは判断しなければなりません。またレメディを飲んでから症状が出るまでに、その人がいつもと違うことをしなかったか、環境の変化や変わった出来事・事故に遭遇しなかったか、レメディを指示通り飲んだか、あるいは別の要因によるものなのか等を確認しなければならないため、患者さんの協力が必要です。本人が過去にその症状を持っていたという事を覚えていないという事もあります(結構あるんですよー!)ので、時には患者さんの家族に確認してもらう必要もあるかもしれません。

間違ったレメディによるプルーヴィングは、患者さんの感受性の程度・質にも左右されます。敏感な人、精神的または身体的に色々なものに反応しやすい人は、さほど高くないポーテンシー(Potency=レメディの強度のようなもの)で、1錠飲んだだけでも起きる事があります。更に、レメディ以外の何らかに影響を受けやすいという感受性を持つ人もいるという事も考慮しなければなりません。

さほど感受性が高くない人でも、間違ったレメディを長期間飲み続けると、プルーヴィングする可能性があります。

もちろん、なぁーんにも起きない!という人もいます(笑)

恐らく、あまりホメオパシーの経験が無い人が、セルフ・メディケーションとして自分自身や家族でレメディを利用した時に、気を付けなければいけない事の1つが、この間違ったレメディを飲み続ける事によって起きるプルーヴィングでしょう。

一般用に販売されている「セルケア・キット」「ファースト・エイド・キット」「トラベル・キット」等に入っている30Cのレメディでも、飲み方によっては充分にプルーヴィングを起こせるのです。

通常、プルーヴィングによる症状は、飲んだレメディのポーテンシーや回数、現れた症状によりますが、長続きするものではありません。個人差が常に存在しますが、数日から1週間、あるいは2週間程度でしょう。しかし、もしセルフ・メディケーションで、プルーヴィングしてしまったと判断し、症状が深刻な場合は、ホメオパスに相談してアンチドート(Antidote=レメディの効力をキャンセルする事)を検討しましょう。

コーヒーやミントがレメディの効力をキャンセルすると言われていますが、必ずしも有効にアンチドートしないと多くのホメオパスが指摘しています。(治療のためにレメディを飲む場合は、もちろん避けて下さい)

ホメオパスに相談していただくのが前提ですが、どうしてもアンチドートを急ぐ場合、

  ①カンファー(Camphor)の入ったエッセンシャル・オイルを数分おきに、繰り返し数回嗅ぐ。

  ②プルーヴィングしたのと同じレメディで6Cポーテンシーを1錠飲む。

のどちらかを試してみて下さい。これでもダメな場合もあると思います。

また、言うまでも無く、ホメオパスの指示でレメディを飲んでいる場合は、勝手にアンチドートしないようにして下さいね。

多くの場合、プルーヴィングに限らず、「Wait, do nothing!」というのが、ホメオパシーのゴールデン・ルールの様ですよー!

【参考文献】

  • 'Psychiatric Patients - Hahnemann and Psychological Cases, Lectures on Pure Classical Homeopathy,' by Andre Saine

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ホメオパシーの原理1

【似たものが似たものを治す

  ~Similia similibus curentur = Let likes be cured by likes~】

ホメオパシーの最も重要な法則は、「似たものが似たものを治す」です。「Low of Similars(類似の法則)」とも言います。これなくしてホメオパシーはありません。

正確には、「似たものに、似たものを治させよ」という事になり、この場合どちらかというと自然の法則に従って、似たものによって治癒が(自然に)起こる、つまり自然界の法則に委ねなさいというニュアンスが含まれるように思いますが、一般的には両者は同じ意味で使われています

よくホメオパシーの例えに使われる「毒をもって毒を制す」と似たようなコンセプトですが、ホメオパシーに使われるのは、いわゆる毒ばかりではありません。これはどういう事を意味するのでしょうか?

ハーネマンが発見したのは、健康な人に病気の状態を人工的に引き起こすことが出来るもの(植物・鉱物・その他あらゆる物)が、それと非常に似た状態の人を治すことが出来るという事だったのです。

これは何も「病気の状態」でなくてもいいのかもしれません。病気であるというのも健康に対する相対的な状態でしかありませんから、病気の状態を引き起こすというのは、ある状態から別の状態になるということの1つのパターンに過ぎませんし、そのためには毒である必要もありませんから、人間に対して何らか影響を与えうるもの全てがホメオパシーの対象(レメディ)になるのです。

ハーネマンは著書Organonで、“兆候と症状の複合体(注:つまりある人の一連の症状・全体像)以外には、治癒の対象になる病気においては何も見出すことが出来ない”とした上で、“人工的にある病気の状態を引き起こす力があり、それによって治癒しようとしている症状、つまり自然の病気の状態を消し去る事によって、病気を根絶やしにする効果がある薬だけが、レメディ=治癒をもたらすものとなる”ので、“こういった能力があり、最も簡単、確実、そして永続的に治癒をもたらす事が経験によって証明された薬を探せ”と言っています。

実はここでハーネマンは、そういった薬は「似たような又は反対の症状を引き起こすことが出来る」と言っており、似たものでなくとも治癒力があることを認めています。しかし、反対の効果を使った治療(AnitpathicPalliativeと言います)では、長期的なしつこい症状を根絶やしにすることはあまり無く、短期的な緩和の後に更に悪化して現れるということが、経験や実験から明白であるとしています。

既にいくつかの日本の書籍でも紹介されているように、元々はハーネマンが、エジンバラ大学医学教授W. Cullenの「The Treatise on Materia Medica」を翻訳していた時から始まりました。ハーネマンは当時の医療に失望しており、翻訳家として生計を立てていました。

Cullenは、ペルーヴィアン・バーク(=Peruvian barkCinchonaまたはChinaとも呼ばれます)が、マラリアの治療に効果があると記述しており、それは胃に対する強壮効果によるという説明でしたが、これに疑問を抱いたハーネマンは、自分でこのバーク(木の皮という意味)を飲んでみました。ハーネマンは健康な状態でしたが、マラリアと同じ様な症状に見舞われました。幸いなことに、その状態は長続きせず、しばらくしてから自然に治まっていきました。

ここで注意しなくてはならないのは、Chinaが引き起こすのは正にマラリアの“様な”症状ですが、マラリアそのものではありません。つまり「似ている」のです。「同じ」ではありません。

ハーネマンの慧眼は、このことからホメオパシーの治癒の法則を見出します。すなわち、人工的に病気の状態を引き起こすことが出来るものは、その人工的な状態によく似た自然に発生した病気を治すことが出来るという事だったのです。似たものや反対のものが治癒をもたらすという原理自体は、ハーネマンが最初に発見したのではなく、ヒポクラテス(HippocratesBC5世紀頃)やパラケルスス(Paracelsus14931541年)が既に唱えていましたし、その他ハーネマンの時代にも同じ事を唱えている人がいたようです。しかし、この原理を徹底的に実験し体系化したのは、ハーネマンが最初だったのです。

ちなみに、このペルーヴィアン・バークから抽出したキニーネ(Quinine)という成分は、現代医学におけるマラリアの主要な薬として今日も使われています。当然ホメオパシーでも、ハーネマンが実験(Proving=プルーヴィングと言います)したのと同じように、キナの皮のレメディ「China(チャイナ)」として使われています。

【参考文献】

  • ‘Organon of the Medical Art,’ by Samuel Hahnemann, edited and  annotated  by Wenda Brewster O’reilly
  • ‘Impossible Cure,’ by Amy L. Lansky
  • ‘Homeopathy – Medicine for the new millennium,’ by George Vithoulkas
  • ‘The Principles of Homoeopathic Philosophy,’ by Margaret Roy
  • ホメオパシー大百科事典,’ アンドルー・ロッキー著, 大槻真一郎監修

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ホメオパシーで肩こりを

友人たちは、私がホメオパシーを勉強しているのを知って、「肩こりに効くレメディをくれ」とか「肌がキレイにならないかしら?」あるいは「痩せるレメディをちょうだい」などと、よく私に言います。もちろん半分は冗談です。彼らは、ホメオパシーがどういうものかある程度知っていて、私が首を横に振り、お決まりのウンチクをたれるのを知っていますから(笑)。彼らの悩みは当然、何らかの形で解消されるべきですけどね。
私自身も出来れば「おっ、それならいいレメディがあるよ!」と言ってあげたいのですが、ホメオパシーは、単に肩こりだけとかを治すという事を基本的にはしません。かといって、肩こりについては全く手の打ちようが無いといっている訳でもありません。

ではホメオパシーでは何を治すのでしょう?

ホメオパシーは、病気や病名の付いている病変を治すのではないとよく言います。つまり、病気を持っている、あるいは病気になっている人自体を治すのです。結果として病気は消えて行くことになります。
肩こりを取り上げると、ちょっと極端な例になってしまいますが、肩こりはその人の症状の1つに過ぎないのであって、肩こり=その人ではありません。ホメオパシーの治療を受けるキッカケが肩こりであるという事は有り得ます。ホメオパスは、その人の主訴を「肩こり」として診察(セッションとかコンサルテーションとか言います)を始めるでしょう。そういった人が5人いたとして、5人全員が違うレメディを処方される可能性があるのです。偶然5人とも同じレメディを処方される可能性もあります。ホメオパシーのセッションにおいては、肩こりは症状の1つとして認識された上で、性格、行動様式、身体的な特徴、病歴、あなたを取り巻く環境(家族、職場等)や、趣味・嗜好といった、その人にまつわる事柄が全てレメディを選ぶための要素となります。色々な本で言われているように、レメディをオーダーメイドするという感じでしょうかね。
従って、「肩こりを治してー!」と言われても、即座に「ハイこれ」という対応はできないワケです。じれったいですねー(笑)

これは私自身についても言えることですが、我々現代人は、何事にも結果を早く出す事を要求され、かつ自身も要求する傾向にありますよね。インターネットが普及して、情報量が圧倒的に増え、また情報伝達がとてつもなく速くなったことも大きく影響しているのでしょうが、それ故、我慢が出来ない、待つことが出来ないという精神状態が幅を利かせているようになり、スピーディーで便利が当たり前とばかりに、緊張・興奮状態にある時間が長くなって来ているのでしょう。対照的な「リラックス」やスロー・フード等の「スロー~」という概念や、ヨガ・氣功等のブームも、当然のことと言えますよね。「免疫革命」や「爪もみ」で有名な安保徹先生の交感神経と副交感神経のバランスという考えも、現代人のライフスタイルに警笛を鳴らしているものです。

病気についても同様です。恐らく殆どの人が、病院に行って、診察や検査を受けて、薬を飲んで、「ハイ、治りました」というのが、100%可能でないとしても、そんな風に即座に病気が治ることを期待しているのではないでしょうか?もちろん、カップラーメンの様に、お湯を注いで3分待ったらOKという感じで、すべての病気が根本的に解決されるならば、いわゆる「3分医療」も素晴らしいことですし(そのために2時間待たされるとしても)理想ではあるでしょう。
しかし現代医療は、病気に対して、病気の人に対して、時間的な長さはともかく、本当に「根本的な解決」を提供しているのでしょうか?症状や病変を無くすために薬や手術によって一時的に抑えつけているだけのものが多くないでしょうか?結局、何回も病院に行ってその都度1、2時間待たされるという繰り返しになっていたり、薬の副作用や手術の後遺症で悩まされている人も多いでしょう。
また長引く症状や、繰り返して襲ってくる痛みや不快な状態を、“体質だから”と諦めている人も多いでしょう。そして、そういった現状に納得いかないながらも仕方がないと諦めていたり、医療というものは、そういうものだと割り切っているか、それが当たり前と理由も無く信じ込んでいるというのが、現代人の基本的な感覚のような気がします。
そういった現代人的な感覚(?)からすると、ホメオパシーの治療というのは、診察にえらく時間がかかって、色々な事を聞かれて、場合によっては数ヶ月あるいはそれ以上も長くホメオパスに通い続けなければならないという、“やたらにじれったい”医療に感じられるかもしれません。逆に「3分医療」に不満がある人にとっては、「先生が親身になって私を診てくれる」と感じるかもしれませんね。

例えば、慢性の頭痛に悩まされている人がセッションを受けたとします。その人は、「何で頭痛の診察に1時間半も掛かるんだ!?」と怒り出すかもしれません。あるいは頭痛と全く関係なさそうな事をたくさん聞かれて戸惑うかもしれません。
しかし実際、その人全体を、しかも根本的に治癒するという目的からすると、そのために費やす時間が3分で足りるはずがありません。そこまでホメオパシーはもちろん現代医学や科学あるいは人間自身は進歩していないのです。「あなたの事は、3分で全て分かった!」と言われたらどう思いますか?

また、ホメオパシーでは、特に精神状態や感情、性格つまり個性を重視します。時には身体症状を無視しているかのように見える時もあります。これは内面的なこと(魂・心・生命力の状態)が外面的なこと(身体的な状態)に影響を及ぼし、しかも人それぞれ感受性が違うと考えているためです。あいにくこうした事は検査器にかけてさっと調べるという訳にも行きませんし、本人が自分の特徴や症状について完全に認識していない場合も多いです。また、認識していても明快にそれを伝えることは難しいですよね。必然的に、レメディを選択するまでに相当の時間を必要とすることになります。これはホメオパスの熟練度にもよりますし、人間ですからホメオパスと患者さんの相性にもよります。

そしてその人が頭痛に悩まされているならば、このようにして選択された適切なレメディによってのみ、頭痛は取り除かれるのです。鎮痛剤で局所的かつ一時的に抑えつけるのではなく、その人自身を治癒する事によって結果的に頭痛になりにくくする、可能ならば2度とならなくする(可能ならばというのは、我々は常に同じ状態・環境に留まってはいないからです)というのがホメオパシーの目指すところです。症状を抑えても、また出て来ます。場合によっては場所と形を変えて出てきます。症状を抑え込むことの害は色々なところで指摘されています。そうならないように、つまり根本的な解決を探しています。ホメオパシーが目指す理想的な治癒とは、「速やかで、優しく、永続的な健康の回復」なのです。

ホメオパシーはしかし、個々の病気の原因は何か?を追求する事にはこだわっていません。残念ながら、全ての人について、それぞれの不調の原因は何かを完全に突き止めるのは現状不可能です。また現代医療のように個々の臓器の病変を分子レベルまで分析しても、その人の一連の症状群の根源的な原因を突き止めることは難しいでしょう。しかし精神状態を含めたその人の症状群あるいは全体像に対して、どのレメディが解決をもたらすかを、ホメオパシーの先人たちは臨床を通じて明らかにしてきました。どういう人が、ある一連の症状群を持ちやすいか?ある状態になる傾向が強いか?そして、どういう症状像・特徴を持つ人が、あるレメディに対応するか?それが一番大事なことであって、原因を突き止めることが最優先されるのではありません。

ホメオパシーの創始者サミュエル・ハーネマン(Samuel Hahnemann)は、彼の代表的な著書でありホメオパスのバイブルとも言える「Organon」で、“医師(Physicianと言います)の成すべきことは、病気の状態の人を健康にすることであって、空虚な仮説や自慢を並べ立てて、いわゆる体系を確立する事ではないし、ましてや、いかにも良く学んだかの様に見せたり、専門知識の無い人を驚かしたりするために、病気の状態や主因について、知性的でない言葉や抽象的かつもったいぶった表現を長々と述べ立てるということを際限なく試みるのが、その役割ではない”と激しく主張します。また、“観察者(Physicianを指します)は、今病気の人の、以前の健康な状態からの逸脱を認識し得るのみ”であって、“それがたとえ最も才気溢れる観察者であっても、感覚を通じて外面的に知覚出来る身体と心、病気の兆候、症状の状態の変容以外には、個々の病気のケースにおいて何も認識する事は出来ない”とまで言い切っています。「どうせ分かりっこないんだから、そんな事より病人を健康にする事だけ考えなさい」とハーネマンは言っているのです。

私は個人的には、ホメオパシーの発展(=人々の健康)のためにも、科学の進歩につれて病気の本当の原因や人間の本質について、いつかは解明されるべきで、また解明されるだろうと信じていますし(実際、ハーネマンだって仮説を立てているのですから)、ハーネマンの表現も、当時の対症療法中心の医療システムに対抗する形でホメオパシーの有効性を主張しなければならなかったという時代背景から、幾分論調が激しくなっている部分もあるでしょう。しかし、医師の役割・存在意義についてのハーネマンの主張は、今なお心に響いて来ます。もしかしたら、今だからこそ感銘を受けるのかもしれません。

ここで付け加えておかなければならないのは、ホメオパシーではセッションやレメディの選択にある程度時間が掛かりますが、適切なレメディを服用した時には、その効果は驚くほど早く現れます。当然個人差がありますし、症状によりますが、飲んですぐ効き始める場合もあります。数日掛かる場合もあります。一般に急性症状に対しては早く作用し、慢性症状にはゆっくりと作用しますが、これは効果が出始めるのが遅いという意味ではなくて、作用はどちらもすぐ始まりますが、治癒に至るまでの時間が概して慢性病の方が時間が掛かるということです。
以前、私の友人が風邪を引いて鼻水・鼻詰まりが酷かった時に、レメディを飲ませたところ、舐め終わるなり、「これってすぐ効くんですか?」と言われました。いきなり鼻の通りが良くなったというんですね。私にとっても、実はそんなに早く効くとも思っていませんでしたし、レメディが合っているという自信もありませんでしたから、うれしい驚きだったのを覚えています。(ちなみに私の学校・ISHLでは、生徒が急性疾患に処方をする際のガイドラインを設けており、この指示の範囲内でしか人にレメディを与えることを認めていません)

さて、最初の方で、ホメオパシーは肩こりだけを治すようなことは基本的にはしないと書きました。ここで、ホメオパシーでは急性病の治療も行うと言うと、ある疾患(=病名)だけを治療するように聞こえるかもしれず、「その人全体を治癒するというコンセプトとは違うじゃないか?」と思われるかもしれません。しかし急性病であっても、可能な限りその人の全体像を把握して処方を行います。もちろん場合によっては緊急性がありますから、慢性病のセッションほど時間を掛ける余裕がない時も多く、その急性病の症状を中心としたセッションになります。
また、ハーネマン以来の長い歴史の中で、ある特定の症状や臓器の不調に、著しく効果があるレメディがあることも分かってきました(Therapeutics / Organ specific remedies)。良いホメオパスは、闇雲にそれらのレメディを使う事をしませんが、時には一時的に、あるいはその場しのぎ的に症状を緩和する事が患者さんにとって必要な時もあります(そのような時でも、Aに対してBレメディ、CにたいしてDレメディといった反射的な処方はしません)。ちなみにこれらのレメディは、一般に「基本レメディ・キット」、「トラベル・キット」や「チャイルド・バース・キット」として販売されているものの中に多く含まれています。

ホメオパシーでは病気を慢性病と急性病に分けて、根源的にはそれぞれは別の性質を持つものとしています。急性病は主に感染症や事故によるトラウマ等ですが、比較的短期間に限定された過程を経るある特徴的な状態を急性病とするならば、激しい急性病に罹っている人は、その間その状態(=精神・身体症状群)に身も心も支配されていると考えることが出来ます。そして通常の状態においてその人の全体像を構成する他の特徴は、その間影を潜めているかのようです。つまりこの事は、急性病が現れている時、その一連の特徴的な症状群が、その人のその時点での全体像を示していると言うことが出来るのです。逆に、それぞれの症状があまり特徴的でなく、従って急性状態の全体像を把握できない場合には、その処方は難しくなるか、あるいは、より慢性病への取り組みに近くなって行くでしょう。また急性病も必ずその人の持っている感受性に影響しています(あるウィルスに対して、感染する人としない人がいますよね)。
更に、慢性病の症状の一環として急性症状が出る事もあります(Acute in chronic)。従って、慢性病の治療のためのセッションによって、急性病以前からその特徴を把握出来ている患者さんの方が、急性病の治療もしやすい事になります。慢性病治療のための根本体質レメディ(Constitutional remedy)が分かっている場合、急性病の時でも、まず根本体質レメディを指示されるでしょう。以前に面識の無い、いわゆる「飛び込み」の急性病の患者さんについては、短時間では最適なレメディを見つけにくいとして、(プロフェッショナルとしての良心から)基本的には診ないというホメオパスも少なからずいます(この考え方は人によると思いますが)。

では、風邪はどうでしょうか?軽度の風邪は、ムリをしなければ大抵は数日で治ってしまうものですし、上記のように急性症状が支配的な状態という訳でもなさそうです。したがってレメディを特定するための特徴的な症状像を見極めるのが難しいですね。また、自然療法的には、風邪は免疫システムの調整をしているので、悪いものではないという考え方もあるようです。実際、「風邪ぐらいでは、レメディを飲む必要はない」と言うホメオパスも多いようです。私自身は、例えホメオパシーのレメディであっても、出来るだけ薬には頼らないという方針ですので、軽度の風邪なら、ちょっとお休みモードに入って放っておくというのが一番いいように思っています。但し、年がら年中風邪を引いているという人は、慢性病としての治療が必要かもしれませんね。

重度の風邪やインフルエンザの場合、事態は少し変わってきます。これらの場合、更に肺炎等の危険な状態に陥る危険もあります。一連の急性症状は支配的になって来ています。レメディを特定するための症状像も分かりやすくなっているかもしれません。それでも尚、何も薬を飲まないで、十分な水や生姜湯、ビタミンC等を摂取して安静にしているのが一番いいのかもしれません。

最も合理的な戦略は、医者に行って診察を受け、抗生物質なり薬を貰って、それを脇に置いておいて(笑)、①安静にしている。②経過が思わしくないならホメオパスに相談する。③それでもダメなら抗生物質を飲む(=薬の量は最小限に減らせる)。というのが良いでしょう。(現代医療だって上手に利用すべきですし、救急医療としての現代医療の存在意義は偉大です)
私もサラリーマンをやっていたので、こういう時日本人って不幸だと思うのですが、風邪で休むと何だか後ろめたくなりませんか?早く「そういうのが当たり前」という世の中になって欲しいものです。イギリス人(またはイギリスの会社)は有給休暇とは別枠で、病気で休みを取ることが出来ますし、そういう休みを取る事に罪悪感は無いようですヨ。(私の友人は、この時期「風邪で・・・」と言うと、上司に「ウィンブルドンだろ?」って言われるようですが)

肩こりは、、、適度に運動して、ヨガとか真向法とかストレッチとかやって、入浴とかでリラックスして、食事を改善して、趣味を楽しんで、たまに整体に行くんですかねぇ。あ、このセットは、肩こり以外にも幅広く効果があります(当たり前か?)。後は、休暇を取ってハワイにでも行ってノンビリする。それでもダメなら、ホメオパスに体質改善を相談してみてください。

いずれにしろ3分では解消しないでしょうねぇ・・・

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