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2010年9月10日 (金)

最近の新聞報道5(追記)

ちょっと語り足りない感があるので、引き続き前回の記事の話題について書いてみる。

それから、コメントをいくつかいただいていますが、個人的にお答えした方がいいと私が判断するもの以外、基本的に放置する方針です。
記事の論点から外れているものについては、特にそうです。
投稿は承認制になっていますが、個人的な誹謗中傷などマナー違反と考えられるもの以外は、そのまま通します。

ちなみにPurpleさんのコメントは、記事をよく読んでくださっているなと感じます。ありがとうございます。

私が言いたいことは、記事に書いていますし、文章の稚拙さはさておき、じっくり読んでいただければ主旨はお分かりいただけるかと思います。
そもそも分かるつもりがない人に対しては、割く時間も十分にあるわけではありません。
そのあたりも、以下をお読みいただければ分かるでしょう。

では『追記』、始めますか。

私は『科学的とは?』という観点から色々と批判、考察、疑問を投げかけているつもりである。
しかし悲しいかな、この手の論争は、いつも水掛け論なんだよね。宿命的ではあるのだけれど。
なので、私自身は、各所で展開されているネットでの掲示板などでの『言い争い』に参加する気はない。
結局、信念対立になっているので、終わりがないから。

信念対立というのは、各自が属する世界のパラダイムに則って、そのパラダイムの文脈からの理論なり観察結果なりを押し付けあっている状態とも言える。

高希釈の溶液に理論上1分子も残らないのに、その元物質の情報を水が保持しているという理論(言明)は、科学的にはどうなのかという時、

  • 現代科学あるいは通常医学の立場=パラダイムからは、「あり得ない」。
  • ホメオパシーの立場からは、「そうかもしれないじゃないか」。

ところが、「科学は普遍的で客観的に正しい」というナイーヴな一般認識があるので、科学的に解決を図ろうと人々は思う。
しかし、ホメオパシーではなくて、通常科学の内部でも、特に複雑な問題に関して、誰しもが同意して認める「科学的に正しい」結論が、そうそういつも出るものではないのが現実である。
大体、「科学的結論を待とう」と留保になる。

もちろん、それが批判的精神を備えた健全な科学の姿とも言えるが(哲学という地図―松永哲学を読む を参照)、逆に言うと、通常科学内部(サブ・パラダイム間とでも言おうか)でも信念対立があり、それが必然でもあるのだから、ホメオパシーと通常科学(医学)のパラダイムの激突において、「科学的合意」に至る道はどれほど長い道のりか・・・しかも、こちらの場合は留保にならず一方的な否定や排除という執行猶予になりがち。

現代科学(医学)・・・メンドクサイから通常医学にしようか・・・の側にいる人たちは、通常医学というパラダイムにおける理論に基づいて、つまり通常医学の理論を「背負って」、あるいはそれを背景にして対象を観察している。
これを『観察の理論負荷性』というそうなんだが、要するに、

観察とは、対象となる事実をあるがままに写し取ることではなく、むしろ理論的枠組みに合わせて事実を積極的に〈選択〉し〈解釈〉し〈構成〉する行為なのである。
ここに、理論は経験的観察を基盤にして形成されねばならないにもかかわらず、逆に観察は理論を前提し、それによって制約されている。
増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)

科学研究とは科学者が何の前提ももたずに〈虚心〉に自然と対することによって遂行されるものではない。科学者は常に、一定の〈先行的了解〉あるいは〈先入見〉をもって自然に望むのである。
(同上『増補 科学の解釈学』)

同書によれば、これは『科学者の行動を律する一種の〈共同規範〉にほかならない』ので、『科学者たちがそれを明示的に意識することは稀』なのである。

そうでなくても、私たちが見るものは、単なる「網膜に映る像」に還元することはできず、たいていは私たちがもつ知識や期待感、あるいは文化的な生い立ちなどといった「心的状態」に大きく影響を受けている(哲学の基礎 )。

この理論負荷性のテーゼに照らし合わせれば、通常医学の立場からは(それと知らずに)通常医学のロジックでしか議論をせず、自らの理論の尺度で別の理論を計ろうと固執することになる。
もちろんこれは、ホメオパシーの側でも同じことだ。

トーマス・クーンによれば「ある意味では、対立するパラダイムの支持者は、異なった世界で仕事をしている(科学革命の構造 )」のである。
これが、『通約不可能性』ということだが、池田清彦によれば、「理論が違えば何かしら通約不可能性があるのは当たり前(構造主義科学論の冒険 (講談社学術文庫) )」である。
しかるがゆえに、何らかの合意を図ろうとするならば、各論者がこれらの〈先入見〉を取っ払って議論しなければならず、出来ないようであれば、いつまで経っても水掛け論に終始する。

しかし、もしここで、それを律している〈共同規範〉が吹き飛ばされるようなことがあれば、それはパラダイム・シフトが起きるということである(ちょっと単純化しすぎだが)。

パラダイム・シフトとは、

現存の理論は観察事実によって否定されるのではなく、別の新たに出現した対抗理論によって否定され、公認理論の地位を奪われる
増補 科学の解釈学 (ちくま学芸文庫)

ということ。
私はホメオパシーの理論が、そこまで通常医療のパラダイムからかけ離れたものだとは思わないけれども、ホメオパシーを通常医学側が認めるというのはパラダイム・シフトに等しい出来事であるに違いない。

現実には、ホメオパシーの理論が、まだまだ強固なものとなっていないために、公認理論とはなっていないので、パラダイム・シフトは先の話となる。

それは楽しみとして取っておくとして、
何が科学的事実であるのかを規定するのは、その当の理論的枠組みであるという理論負荷性を引いてくるならば、現在の社会のスタンダードになっている通常医学や科学の枠組みの中で科学的であることを示さなければならない。

パラダイム・シフトが起きるまでは、共にその理論を背負って議論するから結論がなかなか出ないし、社会的認識の枠組みは変わらない。
そこでどうするかというと、通常医学による評価方法であるメタ・アナリシスやその元になっているRCTなどの実験で証明しようとすることになる。
これは通常医学の土俵に乗ることを覚悟の上で、ある意味仕方なくやるわけだ。

メタ・アナリシスでなければ、RCTでなければ・・・というのは通常医学のパラダイムである。
ご存知の方も多いと思うが、多くの補完代替療法は、このRCTに馴染まない(鍼やカイロプラクティックで『擬似施術』ということを想像してみると良い)。
「だから科学的じゃない」と断ずるのは、まあ「通常科学的」には正しいのだが、科学主義という観点からの一方的な支配・抑圧とも言える。
これは、何か絶対的な真理があって普遍的に正しいという偏執狂的な幻想を背後に抱えた姿勢であり、結局は科学者の多くが嫌う一神教に通じるもの。普遍的な真理を唯一の神とする科学主義という一つの宗教を形成していることに気づいていない人が多い。
(ちなみに私は宗教を否定していないし、ネガティブでもないので、念のため)

ともあれ、メタ・アナリシスなりRCTなりで実験をすることは、よく言われているようにホメオパシーにとっては不利である。
「熟練したホメオパスがレメディを選んで実験すればいいじゃないか」という意見も時々聞くのだが、これは通常医学が認めない。
例えば、喘息患者を対象にして何人かのホメオパスにそれぞれの患者のレメディを選ばせると、そもそもホメオパシーは喘息という病名ではレメディを選ばない(個別化)ので、喘息の実験に対していくつものレメディが出てくる可能性が高い上に、それぞれの患者にじっくり話を聞くことになるので二重盲検にならない。
つまりRCTとして認めがたい実験になる。
また、この方法で大規模実験を行うとなると、時間もお金も相当掛かる。残念ながら、ホメオパシー側は、そんなにリッチじゃないので、誰かがスポンサーにならないと出来ない。
けれど、このスポンサーがまたバイアスのネタとなる可能性があるので、これまたケチのつけどころとなる。
こうした諸々の制約条件があって、しぶしぶ特定のレメディを「適当に」割り当てて実験することになるわけだ。

そうしていささかホメオパシー的な方法論ではない実験においてさえ、ホメオパシーにポジティブな結果がいくつも出ている。
ネガティブなものもある。だがこれは通常医学でも同じこと。
ところが、いくらホメオパシー側が「(あなたたちの要求する方法で)科学的に証明しました」と主張しても、なんのかんの言っては否定するということが繰り返されているのが現状なのである。

しかも、メタ・アナリシスやRCT自体も完璧なものではなく、あくまで現時点で最良というもの。
実験プロトコルに恣意的な操作が介入する余地があるし、統計的な処理を施すことから解釈にもバイアスが掛かる可能性もあるものである。
実際、バイアスが掛かった実験の存在は、通常医学のRCTでも指摘されている。

世間の人は、「要は科学的に信頼出来る研究をすればいいじゃないか」「証明すればすむこと」と簡単に言うのだけれど、そもそもランセットのメタ・アナリシスのように、悪意をもって恣意的に否定するような行為が正当化されるような社会では、一体どうすりゃいいんだろうね?というのが関係者の共通の失望感だろう。

ここへ来て、私としては、「科学的認識が一定の「関心(利害)」に導かれている事実を強調し、それから目をそらす〈科学主義〉における認識問題を再考させ自己批判を促す」というハーバーマスの『批判理論』を拡大解釈(曲解)してみたくなる(認識と関心 他を参照)。
純粋な研究者の方には怒られそうだけれど、『利害』が大きく働いているでしょということ。

科学は、そもそも研究すべきものを選択する場面において、人間の側の関心によって駆動されているのである。この点で、「対象に対して虚心坦懐、無前提的に研究する」という科学のイメージは正確なものではない。
哲学という地図―松永哲学を読む

科学的事実を定義付けるのが理論的枠組み(理論負荷性)であり、その理論形成を先導するのが関心であるから、科学が政治・経済的利害と結びつき易い現代社会においては、関心のありよう、すなわち利害関係がどう絡んでくるのか自己批判・反省が必要であるとハーバーマスは主張している。
私は、議論がそういった前提に戻っていますか?とムリを承知で問うているのである。

ホメオパシーに肯定的な研究はたくさんあると私は書いた。
実際、様々な研究成果が発表されている。にもかかわらず、とにかく認めたくないようなのである。
Shang によるランセット掲載メタ・アナリシスや最近の一連の新聞報道は、そうした不毛な科学論争の低俗版である。
とはいえ、各論者のとる態度は、本質的には『理論負荷性』や純粋な(?)『利害関心』といった科学哲学や解釈学の文脈の延長線上にあるのである。

したがって、特段悪意や利害がなくても、信念対立から受け入れられないという力学は働く。悪意があろうとなかろうと、本質的にはキリがないものである。
その上に、人は自分の見たいものしか目に入らないもの。とにかく否定したい、信じたくない人は、何を出そうが否定するものだから、そういう人には科学的以前の問題で、何を言ってもムダだよね。

ロジャー・フェデラーの熱烈ファンの人に、ラファエル・ナダルの追っかけになれと言ったところで、その人を『改宗』させるのは、よほどのことがない限り難しいだろう。
今、世の中で起きていることは、これと本質的に同じ文脈にあるのである。

それでも、とにかく証明して、認めさせてやると頑張っている人たちも数多く存在する。
こうした、通常科学の文脈にならって証明していくという努力や柔軟性も、謙虚にホメオパシーの進化を追求するという側面からも必要である。
今後に期待しよう。

さて、またまた長くなった。本当に追記か・・・

まとめのような、まとめじゃないような感じになるが、
私が前回の記事とこの追記で指摘したいのは、議論以前の態度の問題だということ。
ハーバーマス的には、自己批判。
念のため断っておくと、対象は専門家(科学者・医者など)。

科学者なら、あるいは科学的な議論をするなら、科学的なマナーに則って、科学的な態度でやりなさい。
1つの論文だけを拠り所にしたり、ましてやその論文を自分で検証することなしに、一流雑誌に掲載されたという理由だけで無前提に真とする態度は、全く科学的ではない。
各所で散見されるのは、「それは○○の論文で否定されています」という言明だが、それで科学的に否定されたと判断するのは相当ナイーブな論理であり、単に「その人を信じます」とか「その雑誌を信じます」と言っているのと変わらず、科学的批判精神とは程遠い。

逆に少し突っ込んで自己批判すると、そうした行為を批判的に判断するリテラシーが、報道などを受け取る側に乏しいのが悲しい現状とも言える。
(ただ、新聞報道については、しつこくて極端なので、何かちょっと変じゃない?と思い始めている人もいるようである)

ともあれ、専門家でない一般の人ならまだしも、科学者や専門家が公の場でそういう発言をしているとなると、本当に科学者?と疑いたくもなろう。
日本学術会議のコメントでも、まともな論拠は示されていないが、「そんな必要はない。我々は正しいのだから」ということを暗示しているのだとしたら、それは科学の衣を纏った権威の誇示・権力の行使であり、政治的行為である。

こういった文脈を引いてくると、今回の日本の報道に限らず、ヨーロッパなどでも展開されている『ネガティブ・キャンペーン』には、どうしてもある種の悪意を感じてしまう。

陰謀論でキリがないという見解もあろうが、ここまで私が述べてきたことと実は同じで、論理の無限後退に陥るから、それは何も指摘していないのと同じこと。

まあ、私がここで述べていることも、キリがないことをキリがないと言っているようなもの。
疲れるよねぇ・・・でも、そういうことなんだ(笑)
それでも、とにかく前に進んでいくしかないのです。

好奇心と勇気と希望、これらが『創造的意欲』としての科学の源泉なんじゃないかな。(2010年9月10日補記)

で・・・むしろ問いたいのは、彼らの根底にある『利害関心』が、社会権力やカネに繋がっていないと、どうして断言できるのか?
(もちろんホメオパシーにも同じ問いが返ってくるが、現在の社会的立場からみれば、どう考えても政治力・経済力に乏しいから、利害の振幅が圧倒的に小さい)

署名運動に走る心理(真理)というのは、こういう流れなのだと推測する。
政治とカネに対しては、市民運動しかない・・・とまでは言わないけれど、1つの対抗手段ではあるのだ。
非科学的活動には、非科学活動で、なんだなぁ。

ひとまずこれで次の話題に移ることにする。
やれやれ・・・

(つづきます)

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