治癒的探究

2012年8月13日 (月)

メダリストと〈治る人〉

すっかり更新さぼってました。

オリンピック、終わってしまいましたねぇ。
ようやく寝不足&不規則睡眠から解放されるだろうか。

メダル数も多くて、もちろんメダルを取れなかった選手も含めて、たくさんの感動があった。
選手と関係者の皆さんには、心からありがとうと、おつかれさまと言いたい。

素晴らしい名言も飛び出しているが、その中でもボクシングの村田選手の言葉が印象的だった。
なぜって、これから治そうというガン患者にとって、とても参考になるから。

日本ボクシングにとって、48年ぶりの金メダル。
しかも、村田選手のミドル級は、日本人ではムリと言われていたそうな。

しかし彼は、「日本人なら奇跡的なことだが、できると思っていた」とコメント。
テレビのインタビューでも、「日本人に(金メダル獲得は)できないって言われていたわけですけど、僕にできないとは聞いたことがなかったんで、自分はできると信じてました」と言っていた。

これですよ、これ。

「ガンは治らない」「不治の病」だと、多くの人は思っている。
特に、進行ガンや末期ガンとなると、「もうムリ」と諦めてしまうもの。

でも、自分がガンになって、治りたいなら、治したいなら、誰が何と言おうと、自分が治ることを信じて進むしかない。
余命宣告を受けようが、末期だと言われようが、大変珍しいガンだと言われようが、治したいのなら、ただひたすら治ると信じるしかない。

治したいのなら、「治らない、治らない、もうダメだ」というネガティブなイメージや言葉で自分を満たしていては、治るものも治らなくなってしまう。

もちろん、身体を痛めつける侵襲的な治療に頼っているだけではダメで、ガンに対する正しい知識と実践を身につける必要がある。
が、それにもまして、正しい心がまえが、何より大事。

実際、治った人、特に余命宣告や進行ガンなどから生還した人たちは、「何としても治ってやる」という気迫がすごい。
家族など、周囲が諦めていても、本人は全然死ぬ気がない、という場合が多い。

オリンピックを観ていて、メダリストにもさまざまな人がいるとはいえ、共通しているのは、気持ちの強さとひたむきな努力だと、改めて実感した。

ガン治し、病気治しも、全く同じだと思う。
何よりも本人の気持ち。治るという強い心。その上に、家族や周囲のサポートがあれば、鬼に金棒だ。

けれど、ガンの場合、本人が諦めムードで、家族が必死という場合が往々にしてある。
どんなに周囲がサポートしても、本人が「私にはムリ」と思ったら、本当にムリ。

たとえ、「10万人に1人しか治らない」と言われようと、1人でも前例があるなら、あなたが2人目になれる可能性がある。
たとえ、「あなたのガンで治った人はいない」と言われても、あなたが最初の1人になればいい。
そうしたら、本当に「世界一」だ。
本当に治りたい人は、そう考えるのである。

治りたいのなら、本当に本当に治したいのなら、やってみませんか。
あなただけの金メダルを目指して。

2012年2月16日 (木)

生きる勇気

「10万人に1人しか治らないガンです(ガン以外の病気でもいいけど)」と言われたら、どうするだろう?
人によっては、10万人に1人でなくて、「あなたはガンです」と言われても、同じショックかもしれないね。ガンは治らない病気だと思われているから。

「もうダメだ」と思う?
それとも、「ゼロじゃないなら希望はある」と思う?

よく、半分だけ水が入っているコップが例えに出されるけど、「10万人に、たったの1人」と「ゼロではない」。数字の上では、どちらも「1人」である。
それを「たったの1人しかいない」と絶望するか、「1人でもいるならば」と希望を持つかによって、はじめて「1」という数字、つまり事実に意味が与えられることになる。
「1人」という事実は、ただ厳然とそこにあるだけ。どういう風に解釈しようと事実は変わらない。
けれど、事実をどう解釈するかで、自らの世界は変わるのだ。

もっとも、データなどが間違っていたとか、後で別の理論が取って代わったとかいったことが起きるかもしれないから、事実(とされている事象)の方も変わるかもしれない。
であるならば、尚のこと、目の前の事象をどう解釈するかの方が大切だろう。
治そうとするなら、治したいなら、絶望と諦めの心で臨むよりも、勇気と希望を持って進む方がいい。

言うまでもなく、ガンは命懸け。そこで訪れる場面それぞれにおける解釈が、その先の自分の世界を、人生を、左右することになる。

では、何が解釈をもたらすのか?
それは、いわば魂の叫びだ。心から求めるものは何か、である。
ニーチェによれば、「まさしく事実などは存在せず、ただ解釈のみが存在する」。そして「世界を解釈する主役をなすものは、われわれの欲求である」。

ガンと宣告され、場合によっては10万人に1人しか治らないとか、余命数ヶ月といった場面でこそ、生への欲求が問われるのではなかろうか。

生きているのが、あまりにも当たり前すぎるからなのか、生きることへの自分の真剣さと向かい合うということを、わたしたちは、つい忘れがちである。
人はいつか死ぬ。そのことは頭のどこかで了解しつつも、日常の営みにとらわれることによって他人事として忘れ去っている。ハイデガーは、こうしたいわば死の恐怖からの逃走を『頽落(たいらく)』と言ったのだった。

ところが、ある日突然、ガンと言われた時、死というものが、突然、現実として自分に迫ってくる。
その途方もないショックに打ちひしがれて、大抵の人は「死にたくない」と思う。わたしもガンと分かった当初はそうだった。
だが、「死にたくない」という欲求と、「生きたい」という欲求とは、実は似て非なる欲求である。
怖いからどうにかして、ではなくて、治してどんな人生を送りたいか。恐怖に追い回された逃避と、将来の目的に支えられた勇気とでは、進む方向がまったく違うはず。
死がリアルに感じられるこの場面でこそ、自分がどれだけ生きたいか、再度、自分自身に問うべきではなかろうか。
怖くて当たりまえ。けれど、ここで足踏みとどめて問う心、問う態度こそ、生きる勇気に違いない。

そして、そうして問う人にとって、ガンは天からの愛のメッセージとなるのだろう。

2012年2月14日 (火)

治療とは?

市川加代子先生による、手当て実習会に立ち会っていて、ふと思ったこと。

治療って何だろう・・・?

病気を治そうとする時に、特に、ガンのような一般に「不治の病」とされているものを治そうとする時、ヒトはどんな状態なのか、あるいは、治すにあたって、何が欠けているのだろうか。

ガン患者さんたちを前に、そう思い巡らせてみた時、浮かんできたのが『自己信頼』というコトバ。

ああ、そうか・・・。
随分たくさんのガン患者さんたちとお会いしてきたけれども、彼らに一番必要なのは、自己への信頼なのだろう。
つまりは、自分が持っている自然治癒力への信頼である。
だって、殆どの人は、自分の力がガンを治してくれるとは思っていない。
その象徴的な行為が、侵襲的治療をして、自然治癒力を痛めつけること。

けどね、擬人的だけれど、あなたが自然治癒力を信頼していないから、自然治癒力の方も、あなたを信頼してくれないわけ。
だから、一所懸命、手当てや自然療法をやっても、なかなか思うような結果が得られない。

じゃあ、信頼を取り戻すには、どうするんだろうね?

とにかく語りかけるんじゃないかな?何かをするという行為も含めて。
すると、例えば、手当てをして身体に働きかける、あるいは、瞑想やイメージ・トレーニングをして心に働きかけるというのが、相手への語りかけ。
それらによる心身の反応を観る・聴くというのが、相手の声を聴く、傾聴。
相手って、自分だけどさ。

そうやって、少しずつ少しずつ、自己信頼を取り戻していく。
治療の大きな意味のひとつは、語りかけること。
語りかけ、耳を傾けることで、自己信頼を取り戻すキッカケをつくることなんだ。

そんな気持ち、態度で、自然療法に取り組んでみてください。
誰よりも、あなた自身が、あなたの中心から離れていかないように。

2010年6月16日 (水)

ガンの自助療法とホメオパシー

以前から、一度整理しておきたいと思っていることがある。
今の私の在り様の根幹に関わる部分なのであった。

ここ1年程、私は、ガン患者としての在り様、取り組み方を、たくさんのガン患者さんと接しながら、あくまで患者の視点からアドヴァイスをしている。
一方で、ホメオパスという療法家として、こちらは治療家の視点からサポートをしている。

患者の視点から言っていることは、ガンの患者学研究所で提唱している『ウェラー・ザン・ウェル患者学』である。
ここで詳しく述べることはしないが、原則の一つが、『自助療法』つまりは自助努力である。
自助療法という特定の治療システム(=療法)があるわけではないので、要注意。

簡単に言うと、『自分で出来ることを、自分でやりなさい』ということ。
患者が自立せよ、自律せよと説いているわけだ。
最もシンプルで、効果的、でも着実に実行することは難しい。

まあそれは良いとして、
「自分でやれと言っておきながら、ホメオパシーで手伝いますと言うのは、矛盾しないか?
・・・・という声が聞こえてくる。
誰かにそう言われるかもな・・・は、もちろんのこと、内なる声からのジレンマに悩んだこともあった。
ある種の罪悪感もあり、二者択一を自分の中で迫ったこともある。
あれ、普通はこうやって悩まないのかな・・・?

まあいいや。これは自分の勉強不足による取り越し苦労(?)だったのである。
ホメオパシーについて考え直す、とても良いキッカケでもあった。
人によっては、それはやっぱり問題なんじゃないの?と言うかもしれないけどね。

このジレンマの解消は、ホメオパシーに対する今の私のスタンスを決めることにもなった。
のみならず、良く知っているはずだったハーネマンの教えに回帰することにもなったのである。

まず、自助療法(自助努力)は、ホメオパシーを利用する際にも必要なことである・・・ということは、ハーネマンが言っている。
生活習慣を正して、なお解消しない病気(症状)こそ、治療の対象となるものである。
これは、ホメオパスが常に念頭においておくべき次の原則としても表現される。

「間違った生活習慣による症状は、(ホメオパシーの)治癒の法則には従わない。」

ハーネマンは、「間違ったライフスタイルによる病気は、慢性病ではない。」としている。
こうした症状は、ライフスタイルの改善によって、自然に消えていくものと言っているのだ。
(『Organon§77)

ハーネマンは、治療中の食べ物や生活習慣にとても厳しい。
このことは昔の記事に書いたが、あまり認識されていないように見える。

我がホメ仲間のSAHHOさんは、さすが、このことを最近指摘しておられた。
http://blogs.yahoo.co.jp/setsu_forum_k/43296492.html

もちろんレメディは、正しく選べば、結構生活習慣が悪い人にも作用する。
また、それがキッカケで生活習慣が良くなったりもする。
だから、プラクティスの場では、食事だの生活習慣だのと無理強いはしないのだが、効率的かつ、より確率高く結果を出すには、生活習慣を改善することは望ましい。
かなり多くのケースで、ブレーキとアクセルを同時に踏むことになっている。

ホメオパシーに限らず、多くの補完代替療法の現場で批判的に囁かれるのは、
『○○は全然効かなかった』
というものであろう。
ホメオパシーは完全ではない。完全だと言う方がアヤシイのだけれど。
しかし、臨床現場で「あれー、何で効かない?何も起きない?」という場面に出くわす時、生活習慣は真っ先に考慮されるべきだと思う。

ことさら免責をしようというのではない。
ベストを尽くすとは、どういうことなのか、ということである。
特に、患者さんがガンの場合、失敗は殆どの場合、死を意味する。

生活習慣を正すというのは、実は、心と身体にとって自然な状態にするということ。
それは、自然治癒力(免疫力と言っても良い)を働かせるためである。
ホメオパシーを含めた自然療法というのは、すべて患者さんの自然治癒力を賦活するものなのだ。
患者さんはもちろんのこと、ホメオパスこそ、自然療法というのは、何なのか?ということを問い直さなければならない。

さて、もう一つ、自助療法が大原則の患者学で、最も大切なことは、『自分のガンの原因を探り、生き方を変えること』である。

ハーネマンの言葉が脳裏に蘇って、自助療法とホメオパシーが敵対しないどころか、ホメオパシーにとっても、自助療法が大原則であることを改めて認識したものの、それでもなお、他人に何かをしてもらうというのが、自助療法と矛盾しないかという気持ちが残った。

そこで学んだのが、この生き方を変えるということ。
自分のガンの原因を探り、生き方を変えるためには、現在・過去・未来の自分や自分の人生に徹底的に向かい合わなければならない。

あぁ、これって、ホメオパシーのコンサルテーション(セッション)じゃない

もちろん、独りで考えるのとは違うし、ホメオパシーでは、(自助療法のための)ガンの原因を知りたいわけではない。
けれども、センセーション・メソッドやその他のクラシカルのシステムによるホメオパスの質問に答えるためには、嫌でも自分と向き合うことが要求される。
また、そのプロセスの中で、ガンの原因に行き当たることも多い。

まったくもって商売向きではないが、そのプロセスの中で、患者さんが自分のガンの原因に辿り着いて、自分で取り組んで治ったら、それはそれでいいじゃないか

実は、氣づきというのは、『そういうもの』なのだ。
Dr. Sankaranの言う、「治癒とは、氣づきである」というのは、人間の中にある、非人間的なものに氣づくこと。それは、自己の中にある非自己、つまりは、自分らしくない部分を見つめることなのだと思う。

生き方を変えるという取り組みは、突き詰めると、自分らしく生きる。自分が自分の人生の主人公ということである。
最終的にそこに至るのに、すべて自力で行ける人もいれば、レメディの助けが要る人もいる。
手段は、1つではない、必ずホメオパシーというわけでもない。
・・・ということなのだと氣づいた時、ようやく私のジレンマは解決したのだった。

かつて自分の再発を治した時、
「色々やったから、レメディが良かったのか、他のが良かったのか分からないけど」
と言った私に、Misha Norlandが答えた言葉が、なぜか懐かしく思い出される。

「君が良くなったのだから、いいじゃないか。それが一番だよ。」

そう、ホントに、治し方は百人百様。それが自助療法。
ホメオパシーも、その姿勢の中でより一層活きることになる。
と・に・か・く、みんな治ってください

2009年6月14日 (日)

挿絵3

コンサルテーションは、言語ゲームである。
患者とホメオパスが言語ゲームによって織り成す一つの世界である。
従って、症状、センセーション(感覚)、妄想などによって表象される患者像=レメディ像もまた、言語ゲームによる世界の表象である。

私は以前このことを、「ある意味(シニフィエ)について、言語(シニフィアン)によって共通理解を得る行為である」と述べた時があるが、私的には、同じ流れである。

痛いという感覚がある。
当然、患者はその感覚を「痛い」として認識している。
この「痛い」を、ホメオパスとの共通認識として確立しなければならない。
センセーション・メソッドに限らず、ホメオパシーでは、ただ痛いでは足りず、「どのように痛いか」が重要である。

感覚そのものは、患者の内的体験である。
それは本来、本人にしか知りえない。
また、ある領域を超えると、あるいは深まると、本人さえも言語化出来なくなるだろう。

それをどうにか、言語化して共通認識を持つ。これによって、織り成される世界が患者像(レメディ像)となる。(もちろん言語化された像に対して、多少は類推=分析が入る。)

ウィトゲンシュタインによれば、痛いという感覚が先にあるのではなく、言語ゲームを通じて、ある感覚が痛いという事を知る、ということであった。

だから、その立場に立って、改めてその感覚を、痛いという言葉を使わずに表現してみることによって、感覚を再定義出来るだろう。
それが、新たな氣付きとしての痛みの感覚として認識出来る可能性があると思う。

本人が今まで「痛い」として認識して来た感覚を、新たな表象として捉え直そうとする、その行為によって立ち現れる新しい世界が、ただ痛いというだけでない、深いレベル(センセーション)への扉になるような気がするのである。

一旦、痛みから離れてみる。
その感覚に寄り添いつつ、その苦しさ、辛さを噛み締めつつ、これまで自分の世界にあった痛みという言葉から遠ざかる。
そして、その感覚を説明してみる。ありとあらゆる表現を使って。しかし痛いという言葉は使わない。
例え話、イメージ、光景などを駆使して。

大事なのは、そうした説明をしようとしている時にハッと浮かんでくる像や、蘇ってくる感覚、押し寄せてくる感情である。
そう「挿絵」だ。
浮かんできたそれを、解釈しないで、そのまま言葉にする。
それはもはや、単なる話の添え物としてのイメージではないかもしれない。

これを繰り返すことで、本人にしか知り得ない内的体験を、本人さえも知り得なかった体験として表象することが出来るかもしれない。

痛みを、痛みであることを否定して、痛みとして知る

これが、「即非の論理」の一つの形であると言ったら、暴論であろうか・・・?

2009年6月12日 (金)

絶対他力と自力2

私は宗教家ではないし、特定の信仰を持たないので、宗教について語るのは、専門家や信仰心の篤い人に対して気が引けるのだが、治癒について語るには、宗教は避けては通れない。

また、信仰を持たないと言っても、何かしら「神のようなもの」を敬い、信じたいような気持ち、つまりは信心が幾ばくかはあるので、そういった信心の源は何かという好奇心は常にある。
それで結構、宗教書を読むのも好きである。

宗教も医療も共に、根源的には「死への想い」を見つめることから始まる。
神様はイジワルで、人間が一番知りたいことは、死なないと分からないようになっている。
唯物論だろうが、唯心論だろうが、この「私」は、今、ここにいると思っているので、ここにいなくなる自分に対して、何とも言えない不安を感じるのである。

死は無であり、生きているものの体験としては不可知なものである。そうでありながら知らないでは済ませられず、生きているものとしては避けては通れないものとして認識しているから、その不安を克服するのは難しい。

不安を生ぜしめるのは、無についての抽象的認識ではなく、無が人間の存在の一部であるという自覚であるということを意味するのである。不安を生ぜしめるのは、万物のはかなさを認めることによるのでも、あるいは他者の死を見ることによるのでもなく、それらの出来事がわれわれ自身死すべき者であるという絶えず人間に潜在する意識に対して影響を与える、そのことにあるのである。(「生きる勇気 (平凡社ライブラリー) 」パウル・ティリッヒ著)

こういった存在論的な不安である「無」の克服、あるいは「無」との一体化、それが宗教の真髄であろうし、本来の医療もまた、単なる治療に留まらない癒しとして存在する。
それは、よりよく生きるためのものであるのだ。

こうして宗教と癒しという接点を見つめて行く中で、悩ましいのは、というより一人勝手に悩んでいたのが、自分の解釈が果たして妥当なのかということであった。
これは本当は考えても仕方がない。ひとそれぞれ意見は異なる。それこそ言語ゲームに参加して初めて同じ世界を共有する。

私が最近親鸞を読むようになったのは、親鸞自身が、経の原文をかなり自由に読みかえて自分の理解に合わせていると知ったからである。(「パウロ・親鸞、イエス・禅 」八木誠一著)

こちらから行くんじゃなくて向こうから来るんだ。これは親鸞聖人がやった、大胆きわまる乾坤一擲の読み替えですね。それは親鸞聖人の実存を通している解釈です。自分の全身を通して、こうでなければ自分のような者は助からないというんです。お経が嘘を言っているはずがない、しかし、自分には回向する力はない。それならば問題はお経の読み方にあるに違いない、そういうことですね。
(「君自身に還れ―知と信を巡る対話 」大峯顯・池田晶子著)

それは向こうから来て、自身の内におのずと現れる!
キリスト教の解釈でも、「神を観ること」を人間の側の意図的な営みによって論理必然的に成立することではなく、神からの恵として一方的に与えられることである、という視点もあるようである。(「神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫) 」ニコラウス・クザーヌス著 など)

今更ながら思えば、自然治癒力というのも、自然と(おのずと)備わっているものであり、おのずと発動すべきものであるのだ。
そしてそれは、より良く生きるための何よりの恵みなのである。

ともあれ私の解釈は、当然、私個人の体験から生じている、要は我田引水だけれど、これはもう仕方がない。
治癒にも人によって様々な意味があるけれど、元ガン患者兼ホメオパスとしての解釈の仕方を共有するというのも良いのではないだろうか。
たくさんの流れが、一つになる所が見えてくるようであれば。
念仏と禅とキリスト教のように。

私が出会った、ガン<治ったさん>たちは、自分の体験に照らし合わせて、様々なテキストを自分に合うように読み替えたり、自分に合うものをうまいこと見つけて、自分を勇気付ける術を身につけた人たちでもあるような気がする。
でも、おのおのが辿り着いた場所は、そんなに遠くないどころか、やっぱり同じ道にやって来ているようなのである。

というわけで、乱筆・暴言は続く。

2009年6月10日 (水)

絶対他力と自力

「先生にお任せします」

良く聞くセリフである。ガン病棟でもよくある光景の一部であろう。
これを良いとも悪いとも、私は断じない。
それで治る人も、治らない人も、いる。

しかし、殆どの人は、「お任せ」していないのではなかろうか?

お任せして、「あぁ、もう大丈夫」または「これでもう悔いはない」という境地にはなかなか入れないだろう。
誰しも不安はある。しかし問題は、お任せしますと言いながら、疑っている。
心配とは違う、この疑念・・・

ガン患者さんの中には、代替療法なんかで治るんですか?とか、科学的根拠がないから信用できないと言う人が多い。
しかし、そういう人は、西洋医学の治療でも治ることに関して信頼していないからこそ、代替療法者などの所に行くわけである。

お任せしますと言いながら、任せ切れず、でも、アンタの方は信用出来ないと言う。
これは、どちらの医療・療法にも失礼であろう。
どちらを選択しても、あまりうまく行かない可能性が高いパターンである。

私は、個人的には侵襲的な治療には反対である。
少なくとも長い目で観て、それだけでは解決しない。
しかし、仮にある人が西洋医学、例えば抗ガン剤治療を選び、
「先生、お任せします!あー、これで絶対治るぞ。ちょっと我慢さえすれば、もう大丈夫。」
と、心底、一点の曇りもなく、確信することが出来るなら、他人任せでも案外治っちゃうかもしれない、と思う。

これは、親鸞の「絶対他力」の世界であろう。

もう大丈夫という確信。そして阿弥陀仏に完全にお任せする。
なぜなら、弥陀は一切衆生を救うことになっているから。
どんな自力のはからいも捨てよ。なぜなら自力に頼ろうとすることは、弥陀のはからいを信じていないことになるから。

ただひたすら弥陀の光を信じ、悔い改めれば、救われたという確信(往生の確信)が自身の内に自ずから沸き上がる。
仏の方が、手を差し伸べてくれているのだから。
それが、心からお念仏を唱える動機であり、自身の内に芽生えた信心が念仏に向かわせるのである。

ここにあって、念仏を唱えるのが1回だろうが100回だろうが変わらない。
肝要なのは、この「信」であり、それもまた弥陀のはからいにより自ずから生ずるのだ。
あるべくしてある。自然法爾である。

私は、称名念仏というのを誤解していた。
ただ念仏唱えて、悟りを得られるなら、誰も苦労しないわい、と思っていた。
今、初期仏教が注目されているが、そちらの方が理解できる気がした。

しかし吉本隆明氏の「最後の親鸞 (ちくま学芸文庫) 」を読んで、世界が一変した。
なるほど、親鸞には思想がある。私にとっては、それは逆転の思想だった。
そうして、様々読みふけることになり、どうもキリスト教との思想的共通点も感じられるようになったのだ。

「他力の癒し」に話を戻す。

完全にお任せすればいい。絶対他力。
これは実は、途方もなく難しいことではなかろうか?
例えば、情報が氾濫している現在の状況で、ガン患者さんに、このパターンを見いだすことは難しいだろう。
少なくともガン治療において、全ては確率的、つまり不確実である。
疑念なくお任せしろと言う方が無理であろう。

しかし、絶対他力の人はいる!
伊藤勇さんである。
http://www.asahi-net.or.jp/~is9c-yngw/index.html

伊藤さんは、末期ガンで余命3ヶ月と言われた人である。

その3ヶ月で、経営していた会社を社員ごと引き受けてもらい、遺産相続の話を済ませ、法名をつけてもらい、自分で自分の葬式の予約までした。

肩の荷を降ろして、あとはオマケの人生。感謝して、楽しく、お迎えを待つばかり。
3ヶ月経っても、その後も生きていた。しかし、数年間、ガンは無くならず、転移も増えた。

これだけでも驚きである。

ある時、高熱が下がらなくなり、入院した。
とうとうお迎えが来たと思ったそうである。
先生が、気になる事があるから検査させて欲しいと言ったが、「私は気にしていないです」と。
しかし、先生の方が検査したいとのこと。

なんと!ガンが消えていたのである!!

まさに絶対他力。
世間では、伊藤さんを奇跡の人と呼ぶ。
確かにこの境地には、なかなか入れない。

だが、親鸞思想的には、ちゃんと治る理由があったのである。
彼は、ただ諦めた、のではない。
余計なものは全部捨てて、身軽になって、オマケの人生に感謝し、楽しんだ。
一日一日を、大切に過ごした。

厳密には、親鸞的な「自力のはからいの放棄」にはならないかもしれない。
伊藤さんは、玄米食もやっている。これを自力でないと否定は出来ない。
しかし、感謝して、あとはお迎えを待つばかり、という潔さと、身体を労わり一日一日を大切に過ごすことは、矛盾しないだろうと思う。
伊藤さんは、治る確信があって取り組んでいたわけではないだろうから。

そして、どんな事にもありがとう。
これが、称名念仏に当たるのかもしれない。

伊藤さんは、ガンを受け入れたと言っている。
ガンを受け入れ、オマケの人生の安らぎ。すべてに感謝。
ご本人は、そんな風には思っていないかもしれないが。これこそが、弥陀の光に包まれ、浄土を確信した人の境地なのではなかろうか。

とはいえ、伊藤さんが絶対他力という帰結に対しては、異論があるだろう。
私は、彼のケースが誰よりも絶対他力に近いものと思うが、彼をして自力であると言うならば、絶対他力は、治癒モデルとしては、実現不可能だと思う。
(いずれにしても、殆どの人は達成できないだろう)

しかし実は、自力も他力も、癒しの発現において同じ所で交わるようなのである。
道元と親鸞、親鸞とキリスト教といった類の比較研究を読んで分かってきた。
私はここに希望を見いだすのである。

挿絵Ⅱ

「我々は、自分自身の痛みの感覚から、痛みの何たるかを知るのではない」

まず、「痛み」という対象があって、それを表す言語として「痛み」という語があるのではなく、言語ゲームにおける「痛み」という語の使用があって、それによって、あるものが「痛み」とされるのである。
「自己」の哲学―ウィトゲンシュタイン・鈴木大拙・西田幾多郎 黒崎宏著)

ウィトゲンシュタインによるこの「逆転」は興味深い。
《自分自身の痛みの感覚は、例えそれが何であれ、私的な対象であって、無くされ得る(「同書」黒崎宏)》のであるから、我々は言語ゲームに参加することによって初めて、その感覚を世界にもたらし、世界を成す。

では、我々はどうすればよいか?どう問えばよいか?

「痛み」という言葉を使わずに、その感覚を説明せよ、と問うことになるのだろう。

それが挿絵そのものとなり得るか、挿絵と重なり合うか、いずれにしてもその心的事象こそが、この「私なるもの」の体験なのである。

ウィトゲンシュタインは、『断片』(ウィトゲンシュタイン全集 9 )でこう言っている。

全ての感覚には純粋な持続がある。初めと終わりの提示が可能である。

意図は、情緒でも気分でも、そしてまた、感覚でも表象でもない。それは意識の状態ではない。それは純粋な持続を有しない。

私は私の痛みの経過について注意することが出来る。しかし私は、同様の仕方で私の信念、・・・私の知識の経過について注意することは出来ない。

前掲の黒崎氏によれば、純粋な持続を有する感覚や感情と、意図、信念、知識といった精神的なものは直接体験出来ず、もともとその存在形式が違うという。
《我々は、精神的なものを内に秘めて、感覚や感情を刻々経験しているのであって、精神的なものをも、同時に刻々経験しているわけではないのである。しかし、精神的なものなくしては、自己は有り得ない。したがって、自己は経験できないのである。経験的自己は存在しないのである。(「同書」》

これは一見困る。
この「私なるもの」は、語り得ぬものであり、世界の中にはいない。
しかし・・・その語り得ないものは精神、「哲学的私」である。それは、形而上学的主体であり、世界の-部分ではなく-限界なのである。

存在が無いわけではない・・・と思う。
この(精神的)存在は無視しても良い。そういうことだ。この解釈は使える。

感覚や感情として「直接に時間の中で」感じ、経験する。
それは自らの体験ではあるものの、精神的存在としての「自己」を経験しているわけではないのだとすると、感覚(=センセーション)は、自己の中にいる非自己、人間の内にある非自己的存在であるとも言える。

ゆえにセンセーション・メソッド的な帰結は、本来の自己を形作るもの、精神的存在、それはヴァイタル・フォース(Spirit-like vital force、生命原理、氣)であり、語りえない。
そして(これも恐らく語り得ない)純粋経験から言語ゲームを通じて立ち現れる、非自己、非存在としての「挿絵」こそが、レメディであるということになる。

本当に挿絵でいいのか?それが問題だ・・・

2009年6月 9日 (火)

挿絵Ⅰ

私が「そのとき私は彼を意味していた」と言うとき、おそらく私には或る像が、例えば、私に見える彼の様子、等々、についての像が、浮かぶであろう。しかしその像は、或る話の挿絵のようなものに過ぎないのである。その挿絵からだけでは、大抵の場合、如何なる帰結も導かれないであろう。人は、その話を知って初めて、その像の意味を知るのである。(663)
『哲学的探求』読解 ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著 黒崎宏訳)

センセーション・メソッドを研究するに当たって、深く考えさせられるテキストである。

ヴァイタル・センセーションとなり得るのは、ここで言う「挿絵」のことであろう。
我々は「恐らく」、この挿絵の事を知りたいのだ。

しかし、その話を知らなければ意味を知ることは出来ない。
《例えば物語を読むとき、イメージが念頭に浮かぶ、という事は、読むという事に対し本質的ではないのである。読むという事は、心的事象を念頭に浮かばせるという事ではないのだ。(「自己」の哲学―ウィトゲンシュタイン・鈴木大拙・西田幾多郎 黒崎宏著)》

従って、同書黒崎氏の言葉を借りれば、話をするという事は、話者間の言語ゲームにおける言語的事象のひとこまなのである。そこには体験者である「私」は存在しない。

これが、コンサルテーションで起こる事でもある。
体験を巡っての、患者とホメオパスの言語ゲームである。
話すことと、心的現象を想起することは、別の事でありながら、我々はその想起した挿絵の方を知りたいのであり、体験者である「私」の事を知りたいのだ。

困ってしまうのは、以下のような言明である。

意味することは、意図することがそうであるように、体験ではない。

しからば、何がそれらを体験から区別するのか。-それは、それらは体験内容を持っていないということである。何故なら、それらに随伴し、そしてそれらの挿絵になるような体験内容(例えば、イメージ)は、意味することでも意図することでもないのであるから。(同書)

我々は、患者が話した感覚や体験について、それはどういう意味かとしばしば問う。
しかし、言葉の意味を問い、その結果言語化されたものは体験(そのもの)ではないのだとすると、それは問えないことになる。

ただあるがままの挿絵を語ってもらう。結局そういう事になる。
だが、挿絵を知るだけでは意味は知りえず(従ってレメディを選べない)、それを意味する(言語化する)ことは体験ではない(ゆえにレメディ像と照らし合わせることが出来ない)。

西田幾多郎やウィリアム・ジェイムズが言う『純粋経験』、それはRajan Sankaranの言うところの「エネルギー(のレベル)」に対応するだろう。ここで言うエネルギーは言語化不能である。
それが挿絵の形で想起されたものがセンセーションであると言えるかもしれない。
物語は、それが具体化な日常言語に翻訳されたものということになろうか。
であるならば、挿絵から物語まで「降りて」来た時に、元の体験がそのままの体験でなくなっている可能性があろう。

ここに、言語が介在し、言語以外では達成できないコンサルテーションの難しさがある、のだと思う。
知りたい事は、言語の限界にあるものなのだ。

もう少し悩んでみる必要がある。。。

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